つい最近のとある週末、近所に住む友達から朝のお茶に誘われました。
ちょうどウォーキング途中だったので、近場のカフェで落ち合うことにしたのですが、どうやら暇なのではなく相談事がある様子。
仕事をしている彼女は、本来なら週末の朝はゆっくりしたいはずなのに、わざわざ外に出てくるとは、よほどのことがあったようです。
よくよく話を聞いてみると、なんでも職場の同僚から、
「あなた、皆んなから嫌われてるわよ!」
などと言われたそうで、たいそう気に病んでいる様子。
この手の相談、多いのです。多分、私があまりに能天気にしているせいで、深刻な話も気安く出来のかもしれません。
それはともかくとして、こんな時に私が言うことは決まっています。
「私と同じだわ〜!」
自分で言うのもなんですが、このような人間関係におけるネガティブケースは、割と経験豊富なほうなので、このような言い方になるのです。
また「私と同じ!」と、相手が思うことで、暗い気持ちが軽減されることも承知の上でのセリフです。
さて、タイトル通り、私のことが嫌いな人は沢山います。
面と向かって
「みんな、オマエのことが大嫌いなんだよ!」
などと言われたこともあるので、それは私の思い込みなどではなく、確かなことでしょう。
普通であればそんな事を言われたら傷つくとか怒るとかするのでしょうが、私は「あら、そうなの?」としか思いません。
それには理由があります。
まず、「みんな」と人を巻き込むような事を口にする人は、嘘つきだからです。
私はこの「みんな、こう思ってる」と言う言葉を一切信用していません。 そう口にした途端、大法螺吹き認定です。
私は天邪鬼なので、人の言葉をそうそう簡単には信用しません。
「みんな、そう思ってるのよ!」
と、言われたら、
「それは本当か?本当にみんながみんなそう思ってるのか?」と、問い返します。
ここで、大概は
「そうだ!みんな思ってんだよ!」
などと、オラオラと威嚇してくるのがお決まりのパターンです。
そこで私は「わかったわ!」と、その「みんな」とされた人達一人一人に尋問を仕掛けます。
つまり「みんな」とされた当人たちに、裏どりをするのです。
この行為はまるで隠れキリシタンの踏み絵のような効力があります。誰が自分の味方かそうでないかを測るバロメーターとなるのです。
経験上、名指しされた「みんな」が、それを言った人と同じ気持ちであったことはほとんどありません。
「何それ?」「私、そんなこと言ってないわ」といった反応がほとんどです。
中には「え?ちょっといま忙しいから」などと、逃げようとする人もいます。こんな人は少なからず一緒に陰口を言っていたか、「みんな」と口にした人の配下に収められているかのどちらかです。
「私そんなこと言ってない!」という方々は、ほとんどその件に関して無関係か、私に対してはなんの関心も感情もない人達でしょう。
もしかしたら、面と向かって尋ねられたせいで本心を言えなかったという可能性もありきですが、私にとっては面と向かって言えないことは思っていないも同然とみなします。
結論から言えば、ここでいう「みんな」のうち、実際に私を嫌っているのはほんの少数です。10人のうち2人もいればよい方です。
なので「みんな、オマエが嫌いだ!」と言われても、それは自分の意思として伝えられない弱い人間が自分の逃げ場所を確保するためについた戯言だと思いスルーすることにしています。
人から何か言われても知らん顔をしているので、「KYだ」「鈍感極まりない」「図太い神経の女」など、色々言われる事もあります。
もちろん、そう言われても傷ついたりはしません。
それは、私が図太い神経を持った人間だからではありません。そんなに図太ければ、いちいち面倒くさい裏どりなどしに行きませんもの。
私だって多少の感受性はあります。傷つく事も悲しむ事もあります。
しかし、このような場合は不思議と何も感じないのです。
それは、全ての人が自分を好きになるわけはないという思いが根本にあるからです。
人の顔色を見て生きているわけではなく、むしろ自分の気持ちを一番大切にしたいと思って生きているので、敵を作って当然であると思っています。
世の中には色々な人間がいます。その全ての人に好かれようだなんて、最初から無理な話ですし、なによりもそんな必要がどこにあるのでしょうか。
よく「人に好かれるための秘訣」などという読み物がありますが、たとえそれを忠実に実践したとて、嫌われる時は嫌われるものです。
どんな人も自分の好みや都合に合わなかったり、不利益になったりすると思うような相手には嫌悪感を持ちます。
しかし、それはその人の行いの善悪がいつも関係しているケースばかりではありません。
自分が何もしなくても、相手にとって不都合であれば、嫌われることもあるという、まさに不可抗力の世界です。
そんな人の都合や好みに気を遣いながら自分の言動を決めるなど、ストレスの極みではありませんか!
何をしても嫌われるのなら、自分の好きなようにやる方が、よほど楽しく生きられます。
私にとっては、「私のことが嫌いな人」がいるのは当たり前の事なのです。
もちろん、自分から進んで嫌われ者になろうなどとは思いません。
礼儀をわきまえる。人の嫌がることはしない、言わない。そうした最低限のことは常に心に留めています。
それでも嫌われることはあるのです。しかし、嫌われるばかりでないのが人生の面白いところ。
こんな風に開き直ったように生きている私でも、窮地に陥った時には救済に駆けつけてくれるようなお友達はいます。
若い頃のように、誰彼構わずお付き合いするようなことはないので、数は多くありませんが、その代わり、本当に信頼できる味方と呼べるようなお友達です。
自分のことが大嫌いな人がいる一方で、大好きだと言ってくれる人達もいるということです。
だからこそ、誰かに「オマエなんか大嫌いだ」と言われても、それがなんなの?と思うのです。
嫌いなら付き合わなければいい。
話をしなければいい。
近寄らなければいい。
それでいいのです。
それをわざわざ言ってくるというのは、その人自身が心に問題を抱えているからです。
幼稚園の砂場遊び友達ならいざ知らず、大人になってまでもわざわざ人に「大嫌い」だなどという言葉を投げつけるのは、よほど溜まりに溜まった何かがあるのでしょう。
気の毒でなりません。。。
どんなこともそうですが、物事を複雑に考えすぎると、悩むばかりです。
とりわけ人間関係の問題は厄介な事が多いもの。
だからこそシンプルに、考えるのが一番です。
自分のことが嫌いだと言う人とは関係を持たなければいい。そう割り切ることです。
たとえそれが職場の同僚だとしても、業務上必要なコミュニケーションだけとれば、あとは仲良くやる必要はないと思っています。
私も過去に職場でこの友人と同じような事を経験しましたが、そんな時、周りからは「チームワークを大切に」「協調性が必要」などと散々言われました。
仕事を円滑に進めるためには、他の人と歩調を合わせ良い関係を築かなければいけないということでしたが、それをしない私が「みんな」嫌いだというわけです。
なんと子供染みた社会なんだ!と驚愕したものです。
なんの議論もなされる事なく、ただ横目で周りの動向を見て空気を読み、それに合わせて行動せよというのです。
そこから外れた者は、みんな「出る杭」とみなされ、叩かれるというわけです。
叩かれると言っても、ただ陰口を言われるとか、嫌味を呟かれるというくらいで、いきなり後ろから鈍器で殴られたりするようなことはなかったので、それは幸運な事でした。
職場に限らず、どこにでもこんな人間関係にまつわる厄介ごとはあるものです。
不特定多数の人と関われば、自分の意にそぐわない人間を排除しようとする人は多かれ少なかれ出てくるものです。
つまり、厄介ではあるけれど、ありふれたことなのです。
人生は短いのです。
自分を嫌いな人の嫌味に付き合うのは時間の無駄以外、何ものでもありません。そんな事で思い悩む暇があるなら、大好きな人達と美味しいものでも食べに行って、楽しむことです。
もし、そんな友達がいなかったら?
一人で美味しいものでも食べながら、好きなことをして一人時間をエンジョイすればいいのです。
件のお友達にもそう伝えたところ、
「それもそうよね!じゃあ、これからランチしましょう」
と、すっかり明るい気分になった様子。
やっぱり食べることは大切なのです(笑)