昔から旅行記などが好きで、よくそんな本を読んだりしていたものですが、最近はもっぱらブログなどで見るようになりました。
インターネットという便利なものができたおかげで、海の向こうでの生活がリアルタイムで見られるのですからたまりません。
特に興味をそそられるのが「食」です。B級、ジャンクなんでもごされで、これはどんな味かしら?と想像の翼をバタバタとされています。
世界にはまだ私の知らない未知なる美味しいものが潜んでいるのね!と、ググる指が止まらなくなるのです。
ついでに言えば、美しい景色やちょっと変わった体験談なんかも面白く読ませて頂いております。
特に若い方の海外滞在記は、かつての自分を思い出し、「なんだか楽しそうだわね!」と、羨ましさ半分どこか胸の奥がツンツンとします。
あれから30年、あっという間に歳をとり、もうあの頃と同じ時間を得ることはできません。旅はできても同じ気持ちで過ごすことはないでしょう。
若いあの頃だからできたこと、楽しかったことなのです。
海外デビューの荒ぶり
初めて海外へ出て、外国人のお友達ができたことを綴るブログなどを読んでいると、その荒ぶり方が手に取るようにわかり、笑ってしまうことがあります。
これまで持っていた自分の「当たり前」がことごとく覆され、新鮮な驚きや反発などを抱えながらも、新しい出会いに興奮している様子がとてもよくわかるのです。
平たい顔族の中で、協調性を重んじ、人と同じである事がもっとも安全な生き方であると調教されてきた人間が、いきなり彫刻のような顔をした自由気ままな人間だらけの世界に放り込まれるのです。興奮しないわけはありません。
これは作り物か?人形か?と見間違うほどの美しいルックスを目の当たりにし、これが同じ人間なの⁉︎ と絶望したり、そんなルックスとは裏腹に人のことよりまず自分とばかりに自分が悪くても決して謝らず、ギャーギャーと言い訳をしまくった挙句に開き直るという、ものすごい技をかけられた際には、敵ながら「なんなのよ!この必殺技は⁉︎」と驚愕したものです。
それはまさに、無菌の綺麗なプールからいきなり何が生息しているかわからないアマゾン川に放り込まれたような感覚なのでした。
私はアマゾン川の方が性に合っていたのか、元々日本の中でも奇天烈系人間と関わっていて免疫があったせいか、おかしな病気に感染することもなく楽しく泳いでくることができましたが、周りにはそんな生活が合わないという人も沢山いました。そんな人はたちまち心身ともに調子を崩し、もうここでは息絶えてしまうわとばかりに、また無菌プールへ戻っていったものです。
Girls Night Out
さて、そんな海外生活でいい思い出、悪い思い出数ある中、時折思い出すのがスペインでのガールズナイトです。
夏季休暇の折、友人であったスペイン人男子のお宅へ訪れた時のことです。そこには可愛らしい妹さんがおりました。
少しだけお話しをして消えた妹さん、しばらくすると従姉妹だという2人の女の子を連れて戻ってきました。そこでまたお茶など飲みながら話していると、従姉妹の一人が姿を消しました。
しばらくすると、その従姉妹は友人だという女の子を3人連れてきました。
その後も、「顔の平たい族が我が街におる!」とでも噂が広がったのか、一人、また一人とやってきて、あっという間に20人近いガールズが集合することとなったのです。
いくら海外の広いお宅とはいえ、リビングは20歳前後のガールズで溢れかえり、それはそれは賑やかでした。
そんな中、ジャーナリスト志望だといういかにも頭の良さそうな女の子が音頭を取り、私達は夜の街へ繰り出すことになりました。直接のお友達であるスペイン人男子は「男のあんたはダメ!」と置いていかれ、私はどこの誰だかわからないガールズ達とその夜を過ごすことになったのです。
その夜、カフェやバル、クラブを梯子しながら、お互いに拙い英語で沢山の話をしました。
将来の夢、今の悩み、恋愛、仕事のことなど、国籍違えどどこのガールズも抱えている思いは同じなのねと思ったものです。
スペインの田舎町でモヤモヤと過ごしていることに苛立ちを覚えていたのでしょう。同じ年頃の私が極東の島国からたった一人で遥々ヨーロッパへ渡ってきたことが、彼女達にとっては衝撃だったのです。
「私、絶対にアメリカへいくわ!」
「私はとりあえずマドリッドへ!」
私が日本を出てよかったこと、辛かったことなど質問されるままに話した後、彼女達も再度自分の求める道を見つめ直したようでした。
その後、彼女達がどんな人生を送ったのかはわかりませんが、私にとってあのガールズナイトはその後の人生に大きな影響を与えてくれました。
「どこの国に生まれようが、人間なんてみんな同じ。同じようなこと考えて生きてるんだから、優劣なんてないのよね」
そう思えた事で、平たい顔族であることを引け目に感じることもなく、海外だろうがどこであろうが「私は私なのよ!」と自分らしくいられるようになったのです。
つまりは、今あるこの図々しさは、あの夜に芽を出したということなのです。
もう二度とは会わないけれど
海外などへ出ると、私などは「どうせもう2度と会わない相手だから」などと、人との出会いを白けた目で見てしまうことがあるのですが、たとえ刹那の出会いでも、自分の人生を変えるような出会いというのはあるものなのです。
二度と会わないとわかっていても、そんな出会いの一つ一つを大切にするべきなのね!と、あのガールズナイトを思い出すたびに痛感するのです。
たとえその時は心に響くことがなくても、後々思い起こしてみれば、そのたった一度の出会いが自分を変えていたのね⁉︎ と、そんなことに気づくこともあるからです。
これは海外に限ったことではなく、日本にいても同じことです。
人との出会いには必ずなんらかの意味があるといいますが、本当にそうなのかもしれません。
縁は異なもの味なもの
縁というのは不思議なものです。もしもその時、その場所に行かなければ、一生会うこともなくその存在すら知らずにいたであろう相手と出会うのですから。
よい出会いばかりではありません。どこの国へ行っても善人もいれば悪人もいます。
運悪く自分を不幸に陥れる相手と出会ってしまうこともあり、激しく落ち込んだり気落ちしたり激怒したりと、楽しい生活に水を差されるようなこともあります。
私も思い出したくもないような人との出会いというのを何度か経験しました。
しかし、いま思えばそれもよい学びの機会でした。自分の間抜けさ無力さを知り、鼻をがくんとへし折られるという経験は決して良い思い出ではありません。しかし経験したことで得たものもあるので、悲観したものでもないと今なら思えます。
プライド、おごりを粉々に崩されたりするのも、成長痛と同じようなもの。痛みの末に伸びるのです!
だからこそ、悪縁も怖がる必要はなく、それが己の血となり肉となれば万々歳なのです。
命さえ取られなければなんでもありといったところです(笑)
大志を抱かずとも人生は輝く!
なんの目的もなく海外など行っても無駄。そんなことを言う人がいます。
しかし、無駄かどうかは自分が決めることなのです。
たとえ海外で立派なお勉強や仕事ができなくても(実際はできる人の方が少ないですが)、これは外に出なければわからなかったわ!と思えることだけですでに何かしら学びがあったということなのです。
私のように図々しさ、ふてぶてしさ、厚かましさ、そんなことに磨きをかけるなどというふざけた事でさえ、外へ出たからこそなのです。そして国際結婚をした今、外国人夫を筆頭としたわけわからんちんな外国人との付き合いを余儀される中、それがどれほど自分を助けてくれているか!
立派なことを成し遂げれば親は喜ぶかもしれません。自分のプライドを保つこともできましょう。帰国後に得になるようなこともあるかもしれません。しかし、決して立派でなくても、自分が「これは面白いぞ!」「楽しい!」と思える体験をすることも十分に意味のあることなのです。
いつどこでそんな経験が役立つかは誰にもわかりません。だからこそ、最初から「無駄なこと」と切り捨ててしまうのは一つの可能性を放棄することにもなるかもしれないのです。
無駄でもなんでもやりたければやればいいのです。全ては自分の責任なのだから他人様から余計なお世話を焼かれる筋合いもありません。
心も身体も自由なうちが華です。
若者よ大志を抱かずとも人生は輝くのよ!
若い人の旅行記、留学記などを読みながら我が身を振り返り、心の中で小さく叫ぶアラフィフ専業主婦なのでした。