専業主婦という生き物

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どんなに恋い焦がれた人でも物でも、それは記憶の美化によって神格化されている可能性があることを忘れてはいけない。

前回、上野の街についての記事を書きましたが、私にとって最も忘れ難き上野の思い出は『モナリザ』です。

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1974年、上野の森美術館にレオナルド・ダヴィンチの『モナリザ』という絵画がやってきました。

メデイアでもこぞって取り上げ、当時はものすごい『モナリザ』旋風が巻き起こったのを、まだ小学生の小さな女の子だった私も記憶にあります。

絵画になど全く興味がなかったにも関わらず、あの『モナリザ』が見たくてたまらなかったのは何故なのか、いまだに謎ではありますが、当時の私は一度では飽き足らず、何度も上野を訪れたものでした。

とにかくものすごい人がいたこと、そして「芸術」のゲの字も知らないにも関わらず、遥々パリから遠征してきたその絵画に深い感銘を受けたことを覚えています。

その記憶は鮮烈で、成人してからもいつも心の片隅にありました。
そして1990年、ロンドンに渡った私は、その夏にパリを訪れ、まさに16年ぶりにルーブル美術館で『モナリザ』との再会を果たしたのです。

まるで『モナリザ』のストーカーのように、「会いたい!会わなきゃ!モナリザが私を待っている」とばかりに恋い焦がれていたのですが、その再会は私をひどく落胆させるものでした。

記憶の中の『モナリザ』はとても大きく、その背景はまるで金色のオーラがかかったように荘厳なイメージでした。
しかし、ルーブルにいた『モナリザ』はとても小さく、その絵は金色どころか鈍色に落ち込み、あの微笑みさえも暗く沈んだように見えたのです。

小さく見えたのは自分が大きくなったせいでしょう。子供だった私は大人達の大きな身体が並ぶ隙間から『モナリザ』を見上げていました。

しかし、ルーブルで見た時、私は大人になっていました。なんの特別待遇もなくただポツンと展示されている『モナリザ』は、私が両手で抱えられるくらいに小さく見えたのでした。




あの胸がときめくような興奮は何だったのか⁉︎

どうしてあの感動を再び感じることが出来ないの⁉︎

長年恋い焦がれた相手と再会を果たしたというのに、蓋を開ければその人は自分にとってただの人になっていました。
その時の落胆と混乱といったら、言葉では表現できないほどで、しばらくは『モナリザ』の絵の前から動けなかったほどです。

喉元過ぎてみれば、何故あんなに夢中になっていたのか?

何故あれほどまでに好きだったのか?

何事においてもそう思うことは珍しくないことですが、まさか『モナリザ』までもが例外ではないとは。
自分のことながらまるで解せません。

記憶というものの曖昧さに戸惑い、落胆し、自分の脳の身勝手さを体感した瞬間でした。

その時からでしょうか。
「いま目の前にある事実、自分の目で確認したものしか信じてはいけないのかもしれない」
そう思ったのは。。。

思い出というのは美しいものですが、それはただの幻想なのかも知れません。
実際にはそんな素敵なものでもなく、自分の長い人生においては、いつまでも心に留めておくほどのことでもない瑣末な小さな点であるように思います。

そんな思いがあるせいか、私は出来る限り自分の過去を見せつけてくるものを断捨離してきました。
若かりし頃の写真も、手紙も学校の卒業アルバムも、外国人夫からもらった手紙の類も、私は全て捨ててしまいました。

過去が今の自分を形作ってきたことは承知していますが、思い出とは自動的に脳内変換されたメランコリックな感情が大半を占めているものです。

もちろん忘れ難き素敵な思い出もあります。若かりし頃の輝いていた日々を思えば、「ああ、あの頃はよかった」などと思うことも度々あります。しかし、それすらもよくよく考えれば、本当にそれほど素敵な日々だったかは疑問です。

今と同じように、何かを足りないと思っていたり、不満だったり、悩みもあったはずです。
都合の悪いことはボヤかし、良いことだけにスポットライトを当て、これ見よがしに過去を輝かしいものに塗り替えるという小賢しいことを、私たちは知らず知らずのうちにしている。
私はそう考えます。




私とは正反対の外国人夫などは、思い出を可能な限り切り捨てようとする私を見て、「浪漫のかけらもないな〜」と呆れていますが、私にとって幻想に彩られた過去に浪漫を追い求めるつもりはないのです。

しかし、人はその年代、年代で、物事に対する考え方も思いも変わるものです。
私に様々な人生訓をもたらした『モナリザ』ですが、あと20年くらいしたら、またあの荘厳な姿を感じられることが出来るかも知れません。

20年後と言えば、私も結構なおばあちゃんになります。果たしてルーブルまで行く気力体力が残っているか、それはわかりませんが、是非また再会してみたいものです。

私がルーブルまで行くか、あちらがまた上野の街に来てくれるか、いずれにしても、そこで今度は何を感じられるのか、ちょっと興味があります。