お菓子を巡る暮らしの雑記帖

アラフィフ主婦が美味しいお菓子とともに過ごす毎日を思いつくまま綴るブログ。食、家事育児、国際結婚、ブログなど。。。

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人生がうまくいかないと落ち込んでいる時に起こった出来事に、目から鱗で救われた気持ちになった話。

ここのところ定期的に訪れる「なんだか、何もかもうまくいかない。。。」といった憂鬱な時。

やることなすこと裏目裏目で、心を暗くするようなことばかりが立て続けに起こったりします。そうなると、日々起こるほんの些細なことですら落ち込む恰好の材料になって、どんどん落ち込みを増長させていきます。

そうは言ってもいつまでも過ぎてしまったことをクヨクヨ考えていても仕方がないので、そんな時は寝てしまうのですが、どうもモヤモヤと心から離れないこともあります。



私も立派な更年期なお年頃、身体の方はあちこち不調を感じることもあります。
一方気持ちの方はなんとか元気なつもりでいましたが、やはり若い頃のような勢いはもうありません。
いたずらに「更年期鬱」だなんてググってみたり。
全部は当てはまらないけれど、当てはまるところも確かにあるし。。。
原因というものがますますわからなくなると、余計に気持ちの落ち込みが深くなっていくのです。

挙げ句の果てに、もう自分は若くない。。。このまま人生という坂道を下っていくだけなのか。たとえ若かった頃のように毎日エキサイティングなことがあふれていたとしても、それを掴み取る気力も体力も、もう私にはないだろう。。。

このように気分はどん底を這い回っていたのでした。
そんな時です。ある些細な出来事によって、その状況を外側から見つめられるようになりました。

ある出来事

ずいぶん前ですが私はある店で食事をしました。ランチどきで混んでいてバタバタとしていたせいか、お会計の時は気づかなかったのですが、後から財布を見ると500円ほど多くお釣りをもらっていたようでした。直後であれば店に戻ることもしたでしょうが、遠く移動した後だったのでそのままになってしまっていました。

その後、再び同じ店を訪れる機会がありました。心の隅に前回の500円が軽く心に引っかかっていて、どうしたものかと迷っていたのですが、時は前回と同じランチどきで、私の後ろにはお会計の列ができていました。
結局面倒になり、そのままお会計をすませ外へ出たところ、今度は1000円多く支払いをしていたことに気づきました。
ここでまたどうしようかと思いましたが、前回のこともあったのでそのまま店に戻ることはしませんでした。

「やっぱりツキのない時ってこういうことが起こるんだわ。。。」

またしても気持ちが鬱々とすることを積み上げてしまったと、ひどく落ち込んだものでした。

しかし、その釣り銭間違いはそれで終わりませんでした。
その日の帰り、コンビニへ寄り買い物した私は、そこでもらった釣り銭が500円多かったことに翌日気づきました。釣り銭を間違えたのではなく、正確にいえば店員さんがある品物をレジに通すのを忘れたようです。翌日レシートを見ながら家計簿をつけた時に気付いたのです。

なんでこうも間違いが続くのか。。。間違っても気づけばそこで正すことができますが私は気づかないようです。
お札の釣り銭は確認しますが、小銭はもらったらそのまま財布にジャランっと入れてしまうので、気づきにくいようです。

この一連の間違いですが、最初に500円プラス、次に1000円のマイナス、そして最後に500円のプラス。
お釣りを多くもらった時はどうしようかと後ろめたさを感じたり、多く払ってしまった時は損をしてしまったと悔やんだり、心がモヤモヤとしてたものですが、実のところ私は得もしていなければ損もしていなかったということになります。

まさに「金は天下の回りもの」です。

全く違う時間であったり、違う場所で起こったことにもかかわらず、結局最後は綺麗に辻褄が合っている。。。

そう気付いた時、物事は複雑を装って私たちの生活を揺さぶったりするけれど、実のところはこうしてスッキリと収まるようにできているのかもしれない。そう思ったのです。

いい時もあれば悪い時もある。楽な時もあれば苦しい時もある。山と谷を交互にやり過ごす先には平坦な場所が広がっっているということです。

そんなふうに考えると、心を暗くするような出来事が続いたとしても、どこかでそのマイナスを回収する出来事があるのだろうと思えます。
なにやらくよくよ、悶々と落ち込んだりしていましたが、この一件によって目から鱗が落ちたように考えが変わったのでした。




冷静に、客観的に

そもそも、その心を暗くする出来事とは、そんな大それたことなのでしょうか?

「ああ、ついてないわ。。。またしてもこれ?」

何かうまくいかないことがあると、普通の時であれば気にも留めないようなことでも、落ち込んでいるときは過剰に反応しがちです。
しかし、よくよく考えてみれば人生を変えてしまうような悲劇であることはほとんどありません。

もしもとんでもない不幸が訪れたとしたら、その先にはとんでもない幸運が待っているはずです。人生は辻褄が合うようにできていると考えればそういうことになります。
しかし、そんなとんでもない幸運などそうそうは巡ってくるわけがありません、そうなると、その時に見舞われた不幸はきっと大したことではないのです(そう思うことにするのです)。

ただ自分がクヨクヨと気にしているだけで、他に及ぼす影響があるか?
誰かを巻き込むようなことなのか?
そこを考えるとハッキリするでしょう。

もしも、他者にとってどうでもいいことなら、気にしているのは自分だけということになります。
自分の中だけで完結できることであれば、物事はそれほど複雑ではないのでしょう。文字通り気にしているのは自分だけということです。

そんな些細なことを大袈裟に考えて、無理やり自分の中で誇張させ落ち込むのは滑稽なことです。
まずは冷静になって、そんなに落ち込むほど大袈裟に考えること?と自問してみることを覚えたのでした。

新しい出来事で上書き

それでも気持ちが戻らない時は、ひたすら時間が経ち、嫌な感情が薄れ、やがて記憶から消えていくのを待つしかありません。
毎日次々となにかしら新しいことが起こり、その全てがうまくいかないこと憂鬱になるようなことだったとしても、また次の瞬間には別の出来事がやってきます。それは過去の出来事を上書きしてくれるという役割もあります。

どんなことも完全に忘れずとも薄れてはいくもの。
私は嫌なことこそ忘れないようにと心しているので、時折それらを取り出して思い返すようなこともしますが、それでも記憶は薄れていきます。
もしも本当に思い出すのも嫌なことであれば、もっと早くそれらの記憶は他の出来事によって上書きされ、すっかり薄れてしまっていたことでしょう。

どうにもならない時、どんなことをしても心が晴れないときは、冬眠中の熊のようにじっと丸くなって寝ているのが得策と言えましう。仕事にもいかなくちゃならないし家事もあるし、暇な専業主婦のように寝ていられない!そんな人はせめて心だけでも休ませてじっと嵐を待つしかありません。

プラス、マイナス、0

人生がうまくいかないときって、本当に何をしてもうまくいきません。本人の努力や気力だけではどうにもならないという時があるのです。

それでも淡々と生活していれば、いつかその不運の分だけ幸運を感じられる日がきます。月並みな言い方ではありますが、本当にいい時もあれば悪い時もあって、過ぎてみればプラマイゼロになるのだなと改めて思いました。

たとえどんな不運な時であっても、最後はきっと辻褄が合うはず。そう思えれば少しは憂鬱な気持ちが軽くなるものです。

もしもこの憂鬱な気持ちが更年期によるものであるなら、数年後にはそこから抜け出し辻褄あわせに、とんでもなく素晴らしい日々が待っているんじゃないのかしら⁉︎
などと明るい妄想をしながら、何もかもがうまくいかない日々をやり過ごしてやろう!と思うのでした。(笑)