ネットの世界は相手の姿が見えません。
顔はもちろんのこと、性別すらわからないことも珍しくはありません。
どこでどんな人生を送ってきた人なのか、今どこでどんな生活を営んでいる人なのか、何歳なのか、男なのか女なのか、何もわからない人が画面の向こうから様々な言葉を置いていくことがあります。
それは心を明るくしてくれるような言葉もあれば、人を傷つけることが目的であるかのような酷い言葉もあります。
どんなに腹に据えかねても、マイナスな事には関わらない主義ではありますが、昭和の人間の典型である私にとって、それは時に大きな戸惑いとなります。
インターネットとともに成長してきた娘世代にとっては耳を傾ける必要のあるもの、ないものを見分ける術が自然と身についているようで、こともなげにバサバサと切り捨てていくのですが、そう簡単に人から投げかけられた言葉をなかったことのようにはできません。
さりとて、相手がどんな人なのか分からなければ、なにをどうすればいいのか最善の策も浮かびません。そこが戸惑いの理由でもあります。
匿名というのはいいこともあれば、悪いこともあるものです。。。
匿名であるがゆえに本当の心のうちをさらけ出せることもあります。思っていてもリアルでは口に出せない思いを表に出せるのは、いい意味でのガス抜きにもなります。
しかし、それが時に誰かの神経を逆なでし、思わぬリアクションに見舞われる事もあるのです。
自分とはまったく違った意見があるのは当然のことです。人はそれぞれですから。
普通の物言いであれば、「そのような考え方もあるのよね」と、素直にまた別の視点で物事を見つめ直すきっかけにもなります。
しかし、時に感情に任せてか、いきなりナイフのような言葉を手当たり次第投げつけてくるような人もいます。
そんな時投げかけられる言葉は匿名性ゆえなのか、それはそれは酷いものです。
もしもリアルな人間関係の中でそのような言葉を発したら、ものすごい修羅場となることは間違いないでしょう。
まったく会ったこともない見も知らぬ相手に対して、生き死に関するようなことまで、罵詈雑言を一方的に投げつけるということが当たり前のようになされるのです。
つまり、個が特定されなければ何をしても何を言っても構わないという理屈です。
ネットがいじめの温床となっているのは誰もが知るところですが、それもまたその匿名性ゆえなのでしょう。
陰口と同じように、誰がどこで何を言っているのか、個が特定されさえしなければ何を言っても大丈夫と考える人がいます。
しかし、これからはそんな常識も変わってくるのではないでしょうか。
ネットを使ったいじめ裁判で情報開示請求が認められたというニュースが少し前にありました。
匿名によって特定の人を個人攻撃することがまかり通らなくなるということです。
一度ネットに書き込んだことは、なかったことにはできません。
それは確固とした証拠として残ることになります。
だからこそ、発信する自分自身もきちんと考えなければいけないと思っています。それと同時に、いかに自分を守っていくかという自衛手段も備えておくことが必要になります。
出る杭は打たれるというように、人がアクションを起こせば必ずリアクションはあるものです。そのリアクションがいいものばかりとは限りません。
それが有名でもなんでもない「ただの一市民」のブログやツイッターなどでも同じことが言えます。
アクセスの桁が増えれば増えただけ、そんなリスクは高くなっていきますから。。。
言葉の受け取り方というのは人それぞれです。
同じ言葉でもそれを不快に思う人もいれば、傷つく人もいます。その一方で愉快だとか小気味がいいと感じる人もいます。
万人ウケするなどというのは所詮は無理なことです。そんなことに頓着していたら、誰もなにも言えない、書けないということになります。
その塩梅は難しいところですが、つまりは不愉快な言葉を投げつけられても、今時の子供達のように「取るに足らない事」と切り捨てていかなければネットの世界にいることはできないのだと思います。
よくリアルな世界で人間関係を作るのが難しいと感じ、ネットの中で居場所を見つけるという話を聞きますが、私にとっては姿なき者の存在の方が、よほど厄介であると感じるのでした。