お菓子を巡る暮らしの雑記帖

アラフィフ主婦が美味しいお菓子とともに過ごす毎日を思いつくまま綴るブログ。食、家事育児、国際結婚、ブログなど。。。

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人の死に思うこと。明日があるのは決して当たり前ではないことを知り、今日を笑って生きるのです。

師走に入ってから、身の回りで不幸な知らせが立て続けに入ってきました。
知人や親類、お目にかかったことのないお気に入りのアーティストなど、本当に自分の見知った人が、この世から居なくなってしまいました。

病気の人もいれば、自死の人もいます。どんな苦しみを抱えていたのか、みんな自分の死が目前に迫っていることを意識しながらも、誰にもそんな様子は見せなかったといいます。
もしかしたら、サインは出していたのかもしれませんが、周りの人間は誰もそれをキャッチすることができませんでした。
死というものは誰にでもいつかは訪れるものだとわかっていても、それを実感することは難しいことです。
そのせいでサインを出されても「まさか」という気持ちでスルーしてしまうのかもしれません。



亡くなった人の一人は親類の女性でした。私よりもずっと若い美しくも聡明な女性で、結婚したばかりでした。そんな彼女が自らの命を絶ったことに、周囲は驚きと悲しみを隠しきれませんでした。

「なにをそんなに悩んでいたの?」

「どうして相談してくれなかったの?」

「結婚して幸せの絶頂だったはずなのに。。。」

みんな口々にそう言いました。
死ぬことと生きること、どちらがエネルギーを必要とするのか分かりませんが、生きることがそれほどに辛かったということなのでしょう。
残された者の苦しみや悲しみは充分に理解できますが、自死を選んだ本人の苦しみもきっと堪え難いものだったのでしょう。
悲しいけれど、非難したり「どうして?」と考えることはしたくないと思いました。
もちろん自死を認めているということではありません。
人間は生きる意味があるから生きている。誰かにとって必要だからこそ生かされている。
私はそう考えているので、自分が生きているうちは、自分にとって意味はなくても誰かのために生きていかなければと考えています。
自分がここにいる意味があるなら、それがなにかわからずとも、たとえ苦しくても生きていこうと。
しかし、みんな自分と同じ考えで生きているわけではないというのも承知しています。

苦しみというのは、人に言えるうちはまだ軽いものです。本当の苦しみはそうそう人に語れるものではありません。
私は以前、大病をしたときに自分がこの世からいなくなることを初めて意識しました。死を覚悟するというのは恐ろしいものです。悲しみや諦めといった感情に始終つきまとわれ、心が晴れることはありません。
そんな心境を誰にも言えずに自分の中に抱え込んでいるのは、時に叫び出したくなるほどの苦しみを伴うものです。
なぜ言えなかったのかを考えると、家族には悲しい思いを共有して欲しくない。普段通り笑って暮らして欲しいから、自分も「大丈夫よ!」と、笑って暮らすのです。
仲の良い友人知人にもそうです。それと同じくらい同情されるのは嫌という妙な見栄のよう感情も芽生え、本当の気持ちを表に出すことなど出来ませんでした。
自死とはケースが違いますが、本当の気持ちを吐露できないという気持ちは、似たような心の動きなのではと思います。
病気のことなどをブログで綴れば、きっとそんな情報が役立つと思ってくれる方もいるかと思い、いつかしっかり書きたいと思いつつも、未だに書けずにいます。それほどに自分の苦しみを思い出したくないのかもしれません。
普段は強い振りをしていても、案外弱いのですよ、私(笑)

医学的な統計からすれば、私は今頃生きてはいませんでした。しかし、まだ私は病気をする前と同じように、元気に笑って暮らしています(笑)
運が良かったのか、生きている意味があるからこそ生かされているのか、時折考えることもあります。
自分の死を意識したときの愕然とした悲しみと諦めを思い出すたびに、今こうして生きていられることが、幸せだと感じられます。
それと同時に、人はいつどうなるかわからないという危機感も持ち続けています。
昨日まで元気だった人に、もう2度と会うことができない。そんなことも普通に起こることなのです。
だからこそ、自分のやりたいことは存分にやって、後悔のない生き方をしたいと努力しています。自分の大好きな人達を精一杯に愛して、自分も周りの人達も笑っていられるようにと、それを人生の目標にしています。
大好きな人達には「大好き」だと伝え、感謝があれば、「ありがとう」と伝え、会いたければ「会いたい」と伝え、一緒にいたければ寄り添う。そんな風に自分も大好きな人達も幸せを実感できるように暮らしていきたいと思っているのです。
逆に自分を苦しめるものからは遠く離れますが(笑)

当たり前のようにあると思っている「明日」は誰にでもあるわけではありません。突然に奪い去られることもあるのです。そう考えると、今この瞬間すらも無駄にしたくはないと思います。

この一年の終わりに、突然いなくなってしまった人達。
その人達が活き活きと暮らしていた様子を思い出すと、本当にいなくなってしまったの?と、信じられない気持ちになります。
よほど近くにいる人でなければ、自分の生活に影響があるわけでもありませんが、考えるとやはり心が重たく暗く翳り、考えずにはいられなくなります。

人は「死」というものを、なるべく心に置かぬように暮らしているものです。「縁起でもない」という言葉があるように、それを連想させるようなことは考えたり口に出したりすることをよしとしません。
私もそうです。そんなことは考えたくもありませんが、今を大切に生きていくという気持ちを一番強く意識できるのは、その反対側にある死というものなのです。

今年もあと2日で終わります。
「来年は。。。」と考えるのではなく、常に「今この瞬間を!」と生きていこうと改めて思った次第です。

神様に引き戻されたのか。自分のいるべき場所で生きることこそ幸せだと気づい年の瀬。

先日、夫に誘われて、あるアーティストのライブに行ってきました。
そのアーティスト自体は特に興味があったわけではないのですが、場所がミッドタウンの『Billboard』です。
ドリンク片手に素敵な音楽を楽しめるとあれば、断る理由もありません。

その夜は私にとって久しぶりの外出でした。夜に限らず、最近はずっと仕事のお手伝いに出向いていたため、お友達とランチへ行くこともご無沙汰、お買い物すら行く暇がありませんでした。
お休みの日も家事だなんだと朝から動いていると、あとは家でゆっくりしたいと更に出不精になっていたのです。
これではまるで私らしくないと、過剰に危機感を感じたのか、夫が「疲れているかもしれないけど、気晴らしに行こう!」と連れ出してくれたのでした。

久しぶりに夫とデートとなった訳ですが、これがきっかけとなり、自分がいるべき場所って、あるんだなぁ。。。と、まるで目から鱗が落ちたように気づいたのです。
自分が居るべき場所とは自分が住んでいる、暮らしている場所はもちろんですが、その環境のことです。
どんな人達と過ごし、どんな話をしているのか、何を美味しいと食べて、どんなメイクをしてどんな服を着て出かけるのか、その生活全てにおいてです。

20年近い専業主婦生活で、ここぞ自分の居場所だ!という幸せな生活を送っていましたが、ふとした時に「世の中、自分の知らないもっともっと楽しい場所があるかも?」と、思わないでもありませんでした。
元々新しい事を経験するのが好きなので、ついついよそ見をしてしまいたくなるのですよね。
特に子供達が大きくなり、一緒に過ごす時間が少なくなってくると、これまで忘れていた「自分だけの時間」というものが、突然意識されるようになり、なんだか心がワサワサし始めたのです。

そんな時、専業主婦友達とのランチ会などで、「そろそろ我々も社会復帰する時が来たようだわ!」な〜んて調子に乗って、仕事でもしたいわね〜とノリノリで行動を開始した訳です。
そんな中、念願の再就職を果たした者、結局は職にありつけなかった者、また私のように短期のお手伝いパートをとりあえず始めた者と、様々ですが、結局は全員が同じ場所に戻ってきました。
つまり、専業主婦にUターンということです。




長年をかけて構築されてきた専業主婦としての価値観や生活は、そうそう変わるものではありません。
よほど仕事がしたい!という強い意志があったり、仕事をしなければいけない状況であれば別でしょうが、ちょっとだけ生活を変えてみたいとか、そんな気持ちではどちらも中途半端になってしまうのです。そしてそれらに多少の罪悪感を持ちながら過ごすことになります。
これまでしっかりと出来ていた家庭の中のことがおざなりになり、充分に出来ないことにイライラしたり、それでもどうにかやらなければと無理をして疲れを溜めたりと、とにかく心に余裕が持てない日々を過ごすことになります。
本当に世の中の働く主婦達に脱帽です。みんなどれだけ睡眠を削っているのかと、その体力気力に頭が下がる思いです。
たかがパート仕事でも仕事と家庭の両立にこれだけ苦戦した私は要領が悪いのか、ヘタレ過ぎているのか、ほとほと自分に自信がなくなりました。

時間やルールに縛られて頑張るのは、やはり性に合わないようです。
若い頃からそうでした。自分一人で行動することに慣れて居たせいか、会社という組織で働くことに馴染むこともできず、それに加えて主婦として家庭のこともマネージしていかなければいけないのがまるで修行のように感じていました。
歳も取り、少しは自分も変わったかも?という期待も虚しく、結局は「三つ子の魂百まで」だったというわけです。

なんだかここは自分に合った場所ではないかも。。。と心の隅で感じながらも、新しいことに夢中になって直視出来ずにいた状態だったのですが、もしかしたら、ここでも幸せを感じられるようになるかも?などと淡い期待を抱いていたのかも知れません。
でも、それはただの妄想だったと、よーくわかりました。
所詮は自分が生きていく場所でなかった。仕事の場も自分が交われるような人達の集まりではなかった。そんな思いがストンと落ちてきました。

日々忙しくしていると、そんな風に自分を客観視することもなくなります。夫が危機感を持ったのは、そんなところなのでしょう。
ちょっと自分のしていることを、一歩引いて考えてみたら?と、遊びの時間を提供してくれたのかも知れません。

素敵な空間で素晴らしい音楽を聴いたり、普通だったらなかなか会えないような人と会って話をして笑い合ったり、夫と外でのんびりお茶を飲んで話したり、美味しいディナーをゆっくり楽しんだり、そんな風に過ごしていると、やっぱり私はこんな生活が性に合ってるのだなと思ったのです。
誰になんと言われようが、寄生虫呼ばわりされようが、自分の好きな人達と自由に楽しむことが幸せで、それに勝るものはないと。
これは長らく寄り道をしてなかなか帰ってこない私を、神様が引き戻したのだろうと思ったのです。いや、夫か?

自分に合わない環境に身を置くというのは、知らず知らずにストレスも溜まり、心が少しだけささくれ立ってくるように感じることがあります。
いつの間にか意識がネガティブな方へ行ってしまったり、本来自分はこんなものの考え方をするような人間ではなかったはずだわ!と、ハッとしたり。
世の中楽しいことが一杯で、明日を楽しみに生きていくことが当たり前だと信じていたのに、そうではない毎日があるということを実感したり。
そんな話を職場の人にすると、「みんな苦労してるんだから。あなたも辛抱するべきよ」と。。。
どうして苦労を当たり前と思わなければいけないの?何故わざわざ辛抱しなければいけないの?
普通なら、状況を改善するために何かするものではないかしら?と、そう思う人ばかりではないようです。逆にそんなことを考える私は大人になりきれない子供だと言われます。
苦しみを抱えながらも生きていくことが、文字通り「生きる」ということだと理解している。それが大人だといいます。
でも、そうであるなら私は一生子供のままでいいなぁと思ってしまいます。
自分が毎日楽しい!と笑って居られる場所で、苦労など感じることなく生きていけたらと思うのです。それは決して我儘などではなく、自分自身の選択によるものに他なりません。

人はそれぞれ違います。
仕事と家庭の両立などを生き甲斐に楽しめる人もいれば、そうでない人もいます。逆にどちらか一つを100%の力でやりたいと思う人もいます。
どちらがいいとか悪いとかではないのです。大切なのは自分が求める暮らしがそこにあるかどうかということです。

自分が心から心地よいと感じられる場所こそ、自分の居場所なのだなぁ。。。と改めて感じた年の瀬なのでした。

してもらう人、してあげる人。世の中には二通りの人間がいる。どちらが良き人生と言えるのか。

最近、人の動きを観察していて、つくづく感じたのは、世の中「してあげる人」と「してもらう人」の2種類の人間がいるということです。

何をしてあげたり、してもらったりするかといえば、それはもう全てに関してです。
「してもらう人」がなんにもせずに胡座をかいて座っているだけという意味ではありません。
たとえば、お茶でも飲みましょうか?となったとします。その時にお茶を淹れに自然と席を立つ人と、「お茶はその戸棚にある○○でね」と、指示を出しお茶が入るのを待つ人の違いです。
また、この仕事を何時までにあげなければならないという時、資料を揃えに走ったりと下準備に奔走する人、準備が整えられた段階で仕事に入る人などです。
一見すると、上下関係の上に成り立つ当然の行動のように思えますが、必ずしもその人間関係に上と下が存在していることばかりではないということに気づいたのです。
それは個々の持つ性分のようなものが多分に関係していると。

上下関係とはそもそもこの性分から出来上がるのではないでしょうか。
人には気質があって、人のために何かしてあげたくてじっとしていられない人、人に気に入られたくて頑張る人、自分は難しいことはできないからと、雑用ばかり率先してやる人。
また、それは自分の得意分野ではない。もっと適性のある人間がやるべきだと思っているため、必要以外は誰に何を言われても動かない人。他にやる人間がいるのなら、自分がやるまでもないと思う人。
自分のやるべきことにこだわりを持ち、それ以外は拒否する人。
様々な理由がありますが、そんな性分や考え方が「してあげる人」「してもらう人」を分けているような気がします。



さて、自分は一体どちらの人間なのかしら?
そう考えた時、私は明らかに「してもらう」方の人間です。家庭の主婦、それも専業主婦という立場でありながらでもです。
普通の家庭ならば、主婦は夫や子供のために「してあげる」事が普通ですが、私の場合は「してあげる」ほど気も効かず、マメでもない。やたらと権利意識の高い面倒臭い人間なので、家族の方は自然と「してあげる」方にまわるしかなかったのかもしれません。
夫は「してあげる」方のタイプです。どんなに仕事が忙しく疲れていても、どちらかがやるべき事があれば、必ず自分が犠牲を払うタイプの人間なのです。
だからこそ、長いこと結婚生活を持続させることができているのだと思います。これがもし同じタイプの人間であったら、きっと日々衝突を繰り返していることでしょう。

家庭以外の場面でも、例えばランチ会などがあれば、お店を選び予約をするような役目はしません。それをするのはいつも同じ人です。
仕事の場においても、自分のやるべきこと以外はしません。それはお茶汲みなど雑用をやらないということではなく、それが自分の仕事ではないから手を出さないだけです。
雇用契約などで自分のやるべき仕事とされていること以外は、やらないということです。もしもお茶を淹れたりお掃除をしてくださいという契約になっていれば当然やります。
しかし、自分の仕事以外の雑用や人のヘルプも一生懸命にやっている人もいます。
いま、短期でお手伝いに行っている会社にもそんな人が沢山います。とにかくどんなことでも手伝って駆けずり回っているような人です。
最初は見ていて「何やってるの?それはあなたの仕事ですか?」などと冷めた目で見ていたものですが、徐々にそんな考えが変わってきました。
それは、その人達はなにも深く考えずに、自ら望んで動いているからです。
一度聞いて見たことがあります。
「なぜ、そんな雑用までやるの?それはやらなくてもいいことじゃない?」
そんな問いかけに対して帰ってきた答えは、「誰もやる人がいないから、私がやっておかないと!」というものでした。
その言葉から自分の存在理由を確認することも多少は含まれているものの、ある意味やり甲斐のようなものを感じているのだとわかりました。
つまり「してあげる」ことが喜びになっているのです。そこには特別に上下関係を意識するような気持ちは微塵もありません。

普通で考えたら「してもらう人」の方がなんとなく「デキる」人間に見えてしまいますが、本人の認識は違うのです。それは、自分のしていることに自信があるせいなのかも知れません。
あれこれと動いている「してあげる人」は、実は細かい全体像をまで把握しているため、確かにポテンシャルは低くはありません。
一方で「してもらう人」は、ピンポイントでは素晴らしい能力を発揮し、四番バッター並みに活躍が目立つ事がおおいものですが、実際誰かのヘルプがあるからこそ、そんな力が発揮できるともいえます。

いつも損な役回りばかりだな。。。などと思っている人も悲観する事はないのです。
もちろん嫌々やっているのなら問題ですが、「してあげる」ことで人から必要とされ、自分の居場所を確保できると安心感を得たり、ホームランを打てない代わりに、いつも送りバントを成功させるという信用を得るという点では、必ずしも無駄なことでも卑下するようなことでもないのです。
一方の四番バッターはホームランを打てなければ意味のない存在となります。三振したら役に立たないただの人です。

そう考えると、一体どちらの方が幸せなのかな?と思うのです。
「してもらう」人は楽なようで、実際はプレッシャーも大きく、期待に添えなければ評価は地に落ちます。してもらうばかりで役に立たない邪魔者とすら映ることもあるくらいです。
一方の「してあげる」人は、小さなことをちょこちょこと積み重ね、そこに自分の居場所を作り上げることができます。

こればかりは性分なので、いきなり「してもらう」人が「してあげる」人に変われる訳ではありません。
その逆もしかりですが。。。
もしも変えることができないのやなら、自分に合った役回りの中でできることをする。これしかないように思います。

クリスマスの過ごし方。今と昔の違いをスーパーで知る。鍋をつつき、しっぽり過ごすもいいかも?

クリスマスだけでなく、イベント関連にはあまり興味はありませんが、結婚して家族が出来てからは、人並みに特別な日を作ろうと奮闘してきました。
とりわけクリスマスは外国人夫の期待もあって、クリスマスプレゼントを用意するためショッピングに走り回ったり、親戚中にクリスマスカードやプレゼントを送ったり、そして朝から気合いを入れでデッカいチキンやケーキなどを焼いて、クリスマスディナーを盛り上げようと、家庭のために頑張ってきました。

とりわけ気合いをいれるのは、やはりディナーです。
ローストチキンなどメインの他に、どんなものを用意したらいいかと、朝からスーパーに出かけ、これでもまだ足りないぞ!と、また夕方にスーパーをフラフラしたりすることもあります。



そんな買い出しへ行くと、近年「おや?」と思うことが多くなりました。
それは、普段あまりスーパーで見かけないような若いカップルやグループなどが、楽しそうにお買い物をしている姿を見かけるからです。
カゴの中身から推測するに、どうやら鍋料理が多いようです。オードブルのバラエティーパックなんかを買っている人もいます。これ、明らかにクリスマスの夜を過ごすためにお料理です。
それにしても、クリスマスを家で鍋なんかつつきながら過ごすのが今時の主流なのでしょうか?
ちょっと興味があったので、知人の20代若者達に「クリスマスはどう過ごす?」と聞いたところ、私の予想した通り、家で過ごす派が圧倒的に多かったのです。

これ、昭和世代には考えられません。
かつてのクリスマスを思いおこせば、家にいたことなどありません。
私だけでなく、同年代のお友達もみんなそうだったといいます。彼氏、彼女がいる人は、普段あまり行かないような高価な店でディナーをし、そのままシティホテルへというのが定番でした。当時はクリスマスの日にホテルを抑えるのは一苦労!などという話もよく耳にしました。
私の場合は断然パーティー派でした。あちこちでやっているパーティーに顔を出しては一騒ぎし、また次へ移動して、デロデロになるまで遊ぶという感じで、一体誰と過ごしているのかわからないといった状態でした(笑)
携帯電話の普及していなかった時代ですから、みんなポケベルをフル活用していました。しかし、私はポケベルに並ぶ数字を言葉に変換するのがどうも苦手だったので(覚えられない)、友達がいそうな店に当たりをつけて覗いたり、公衆電話から店に連絡して確認してもらったりと、とっても手間のかかる事をしていました。あの頃今のようにスマホを手にしていたら、もっと沢山遊べただろうなと悔しくてたまりません。

お友達の中年男性とそんな話をしたとき、やはりその方も同じように過ごしていたそうです。
クリスマスはとにかく好きな女にプレゼント攻撃。いかに散財するかを楽しんでいたといいます。目当ての女性がいない時は、いい女と知り合うべくパーティーに顔を出して物色しまくるという、ギトギトなクリスマスだったと(笑)
そんな中年男性にとって、「今時の若者は元気がない!」という印象らしいです。年寄りにありがちなセリフで、まさにウザいオヤジといった感じ。若者からは最も嫌われるギトギトオヤジですが、今では家でのんびりが一番だといいます。
これが歳をとるということなのでしょうね〜と、お互いに失われた若さに悲しみを覚え、もうクリスマスの思い出どころではありません(笑)

このように昭和の人間にとって、若者のクリスマスとは羽目を外して騒ぎまくる日というイメージなのです。
今思えば、大好きな彼氏なんかと、しっぽりと過ごすクリスマスを経験したかったなぁ。。。などと思いますがね。
そう考えると、大好きな彼氏、彼女、また気の合う仲間数人と、暖かい部屋の中でゆっくり鍋をつつきながら過ごすクリスマスというのも、案外悪くないんじゃない?と思えます。
ただ、馬鹿騒ぎできるのは若いうちだけです。私など今では冬の夜に外出するなど拷問に等しいくらいですから。もう夜通し飲んで騒ぐような体力も気力もありません。

家でぬくぬくと鍋をつつくクリスマスは、ずっとずっと後の人生に用意された過ごし方だわ!などと思っていましたが、どうなのでしょうね。
人様がどんなクリスマスを過ごそうが余計なお世話ですが、少しでも素敵な思い出が残るようなクリスマスを過ごして頂きたいものです。

なんて言いつつ、我が身を振り返れば、素敵な思い出のクリスマスなんてあった?といった感じ(笑)
当時の友達とも疎遠になり、所在不明。あんなことがあったね!などと語り合う人もなく、思い出されるのは翌朝のゴミだらけの白けた街の様子やら、メイクも落ちて疲れ切った顔の自分。。。
結局のところなんの意味もないクリスマスだったということでしょう。
それなら、暖かい部屋の中で鍋をつついていた方が楽だし、経済的な気もします。
いやはや、今時の若者ってやっぱり頭がいいです。。。

今年もそろそろクリスマスが視野に入って参りました。
ディナーの買い出しにいけば、きっと鍋派の若者達と遭遇することでしょう。そして、またしてもくだらない馬鹿騒ぎで終わった数々のクリスマスを思い出すことになるのです。

嫉妬される理由なんてなくても嫉妬される理不尽さよ! 嫉妬は不幸の始まり。

世の中には嫉妬をする側の人間とされる側の人間がいるようですね。

嫉妬ほどくだらない感情はないと、どちら側にもならぬよう、そのようなドロドロとは無縁でいようと思っていますが、相手のあることなのでそうそう簡単にもいかないこともあるものです。
一度そんな渦に巻き込まれてしまうと、暴れてやりたいくらいに厄介で面倒臭い思いをすることになります。

例えば、女性であれば
●誰もが振り向くような美しさを持っている。
●家族は優しい旦那様に優秀な子供達。
●経済的にも豊かで、自分の思うままの人生を生きている。
●そしていつも楽しそうに笑っている。

こんな人は嫉妬を向けられる対象になることも多いものですが、世の中には何をトチ狂ってか、そんなものとは無縁な女にも嫉妬する人がいるものなのです。



誰のお話とはいいませんが、そんな訳の分からない嫉妬に、頭を「?」マークにしている女性がいます。
不細工ではないけれど絶世の美女でもなく、家庭は持っているけれど人が羨むほど出来のいい伴侶、子供でない。お金には困っていないけれど、有り余るほど持っているわけでもない。
多少の不満は人並みにあれど、これが身の丈に合った生活よと、日々楽しく笑って暮らしてるという、ごくごく平凡な女性です。

しかし、そんな平凡な人間でも嫉妬はされるのです。一体この女性のどこがそんなに羨ましいのやら?
その程度の人間なので、最初は嫉妬という文字が浮かびませんでした。
ただ、それまで普通にお話をしていた人達がこぞって冷徹な態度をとるようになり、やがては目線も合わせぬ無視状態に突入していったのでした。
その女性に思い当たることは何もありません。なにか人様の気に触る言動があったわけではなく、悪態をついたわけでもありません。
昨日まで普通に接していたのが、いきなりのチェンジで、何が何だかワケワカメ状態。
しかしこの女性の場合、去る者は追わずの精神で生きているので、こちらから歩み寄っていったり理由を尋ねるなどという面倒なことはしません。
そんな放置プレイの末にわかったのは、それが嫉妬によるものであったということで、思わずズッコケてしまったのです。
しかも50女を捕まえて、男絡みの嫉妬と言いますから笑いが止まりません。

その女性、外見は女でも中身は男のような性格です。その竹を割ったような性格のためか、昔から多くの男友達とまるで男同士のような付き合いを当たり前のようにしていました。
これが多くの女達を敵に回すことは学習済みですが、もはや女性も50を超えた立派な中年おばさんと化しています。まさかこの年齢になって、女達の嫉妬に見舞われるとは思ってもいなかったのです。。。

お話の顛末はこうです。
ある会社に臨時の短期パートとして働き始めたA子さん。
最初は何もかもが上手くいっていました。しかし2ヶ月を過ぎようかという頃です。会社にいる一部の女性社員が、こぞってA子さんを避け、無視するようになりました。
どこからともなく流れてきた噂によると、
「A子さん、男に媚び売ってるわよね」
「やっぱり〜。B君ともCさんとも親しげに話しちゃってさ!」
「なんであんなお洒落して会社来るのかしら?」
「アイライン、濃くない?」
と、ここまでは女が集まるとよくやるエンタメ的噂話です。
問題は職場で人気のDさんという男性です。この方、くだらないお喋りもせずに、ストイックに仕事に打ち込むバリバリの硬派(表現が古いぞ!)。能力も高く会社でも一目置かれた存在で、若い女子社員のみならず、定年間際のおばちゃんまでもが目をハートマークにしているお方なのです。
しかしA子さんは正直苦手でした。もともとユルユルと頑張らない生き方をしてきたAさんにとって、Dさんの生真面目さやストイックさがどうも理解できず、苦手意識を払拭する事ができずにいたからです。ついでにルックスも好みから完全に外れ!ガーターです。
そのせいで、A子さんはDさんには必要な時以外は近寄らず、話をする事もなく距離を置いていました。

ところが、どんなきっかけでそんな発想が生まれたのか、一部の女子社員達が、おかしな勘ぐりを始めたのです。
「DさんはA子さんにはやたら親切じゃない?」
「なんか、他の人に対してと態度が違うと思わない?」
「一緒に仕事してる事多いわよね。なにげにフォローしまくってるし」
などという事らしいのです。
同じ職場にいれば、時に肩を並べて一緒に仕事をすることはあります。しかしそれはA子さんに限った事ではなく、ブーブー言っている女子社員達も同じようにしているのです。しかもDさんは誰の仕事に対しても同じような気配りをしているとA子さんの目には見えていました。
にも関わらず、何故かA子さんにだけそんな疑いがかけられてしまったのです。
何もないのに勘ぐられ、Dさんが何かするたびにA子さんに敵意が押し寄せるという、あまりに理不尽な展開です。

男絡みの女の嫉妬。。。これは非常に面倒で、A子さんが最も避けたいことの一つでした。
しかし、不運な貰い事故のように、A子さんの意思にかかわらず、女達の感情は嵐の如く荒れ、終いには二人のデート説まで飛び出す始末です。

こうなってはなす術はありません。何か言えば余計に事態が悪くなるのは目に見えています。
A子さんは無視されることをラッキーと思い、毎日淡々と仕事に勤しみ、ごくごく普通に過ごしていました。
時に他の女子社員達から乱暴な態度を取られるような事があった際には、Dさんと一緒に楽しそうにしているところを見せつけるという意地悪な報復を楽しみつつ。。。

ここで、何故にA子さんが女達の嫉妬の標的になったのかその真髄を推測すると、それは一言で「出る杭は打たれる」ということなのかもしれません。
皆んなが「忙しいから残業頑張ろう!」という時も「定時で帰ります」
「男性社員は大変だから、この仕事は私達でやりましょう!」とそんな空気の時も、「これは私の仕事ではないので致しません」
更には、「Dさん、仕事も凄いし本当に素敵よね⁉︎」と言っても、「私、ああいう人苦手なんで」
などと、事あるごとに皆んなと意見が外れるのです。
つまり「空気を読まない」人間なのです。
そのせいで誰に苦い顔をされようが、文句を言われようが、全く意に介さずに我が道を行こうとするA子さんは、調和を乱す身勝手な存在と映ったのでしょう。

また、もう一つ思い当たる理由があるとすると、それは男性への接し方です。
A子さんは男性に尽くすことは時にその男性をダメにすることと思っています。
嫌われようが愛の鞭を振るうことで、男性は成長することもあるという持論があり、どんな男性をも甘やかすことをしないようにしています。
職場の男性も然り、あれこれやってあげてばかりでは、いい気になって自分でやろうとしなくなります。
かと言って、あれやれ!これやれ!と命令するだけでは反発されるだけです。
やらせるためには男性に優越感を感じさせ、格好のいいところを周りの女性達にアピールできる舞台を用意してあげなければなりません。
どんなにプライドの高い強気の男性も、草食系のひ弱男子も、女性に頼られ自分の「男」の部分を披露できるのは嬉しくない訳がありません。
その辺りの心理を考えて、A子さんは男性に華を持たせつつ、あれこれしてもらっていたのです。
しかし周りの女子社員達は違いました。長年の悪しき習慣らしく、とにかく男性優位と考え、女は男性の補佐(小間使い)を何よりも優先し、ご機嫌取りをしなければいけないと考えているのです。
男性の方もそれが時代錯誤だとわかっていながら、自分たちが楽だからそれでよしと見て見ぬ振りで、女達をこき使うのです。
そんな環境に慣れきっていた男性達にとって、A子さんの態度はビックリ仰天でした。最初こそ反発していたものの、次第にA子さんの強さに恐れをなしたのか、立場が逆転していました。
男性とは本来女性に弱いものです。弱いものが強いものにかしずくのは自然の原理。精神面で男性達はA子さんの下についたというわけです。
「自分達には言いたい放題、やりたい放題の男達が、A子さんのご機嫌取りをしている⁉︎」
これが嫉妬につながったようです。

この嫉妬する女達。家庭でもろくな稼ぎもない旦那様に威張り散らされながらも、必死で生活費を稼ぎながら、家事も一人でこなしていると嘆いています。
自分はどれだけ大変か、不幸か、そんなことばかり言っているのです。
会社での様子を見ていれば、男をダメにしている原因は女の方にも多分にある。。と、A子さんは思うのですが、本人達に自覚はありません。

嫉妬をする人というのは、自分が幸せだと感じられない人です。
自分にないものを持っている。やりたくてもできないことをしている。ただそれだけで憎しみにの対象となるのです。
不幸である原因が自分にもあることに気づかずに、ただ嫉妬の対象がまるでラッキーな人のように見えるのか、憎悪の気持ちを膨らませていきます。
自分の中に始終黒い感情が渦巻いていたら、幸せになどなれるわけがありません。
何故なら、幸せかどうか判断できるのは、自分だけだからです。
側から見て、どんなに恵まれない生活をしていても、自分自身が幸せであると感じられれば、その人は幸せなのです。

だからこそ、嫉妬をするなどというのは、自ら幸せを遠ざける行為だと思わなければなりません。
誰の得にもならないのが嫉妬という感情なのです。

自分達で勝手に不幸になっている人間を構っているほど人生は長くない!
そう思いながら、A子さんは毎日会社で様々な社会勉強を楽しんでいるのです。