専業主婦という生き物

美味しいもの、美容、国際結婚、噂話、専業主婦についてなどを思いつくまま綴るブログ。

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新大久保『Cafe du Riche カフェ ドュ リーチェ』テラスのある広々カフェで新大久保アイドルを眺める午後。

『南大門チキン』さんで絶品チキンを堪能した後、いつも行く韓国スーパーとコスメショップをチェックし、帰る前にちょっと一休みしようと『Cafe du Riche』(カフェ ドュ リーチェ)へ。

以前『カンホドンチキン』さんを訪れた際に見つけ、ずっと気になっていたカフェです。

私の記憶が正しければ、かつては飲食店のあった場所だったと思います。大昔に何度かきた覚えがあります。
新大久保もかなり変わりました。

私は韓流好きでもK POPファンでもありませんが、昔から韓国人のお友達に連れられて、よく新大久保には韓国料理を食べにきていました。
その頃に比べると、新大久保の街も賑やかになったものです。

しかも、こんな洒落たカフェまであるのですから!

かなり広いカフェで、席数もかなりたくさんありました。
この日は割と涼しかったので、外の方が気持ちよさそうだなと、テラス席に出てみました。

オーダーしたのは抹茶オレです。
デザートを頂いていなかったので、その代わりに甘いもの補給です(笑)

平日とはいえ、ランチ後の時間はどこのカフェも混み合うものですが、こちらはかなりの席数があるので、空席をすぐに見つける事ができました。
駅からり少し遠いですが、結構な穴場ではないでしょうか。

すぐ脇に新大久保アイドルがライブをする建物があったようで、アイドル男子たちが出入りする様子が見られました。

背の高いなかなかのイケメン揃いで、ファンもついているようです。
サービス精神なのか、営業活動か、わざわざこちらの席にまできて、「ライブきてね!」と。。。

通るたびに違う男の子が来て、割引ハガキを置いていくので、「もうもらいました」と言っても、さらに渡して来ます。

あら、私ってそんなにイケてる⁉︎

と一瞬自惚れたアラフィフですが、よくよく見ればお目当は目の前の娘ちゃんのようでした。
やっぱり若い男の子はキラキラ女子がお好きなのですね(笑)



パフォーマンスは見ていないので、どんなものか分かりませんが、ルックスを見る限り、長身で小さな頭、腰位置高きボディーバランスもすこぶる良しのイケメン男子たち。
本国でメジャーデビューしてもいいくらいではないか⁉︎と思うほどでした。

近くの席にいた中年女性たち、どうやらファンのようでした。一生懸命にこちらに向かって手を振っているので、「はて?私の知り合い?」と思ったら、アイドル男子たちに手を振っていたのでした。。。

娘に聞いたところ、K popのライブ会場には、沢山の中年女性が来ているといいます。
自分の子供といってもおかしくない年齢のアイドルを追いかけるとは⁉︎
食べ物以外、ハマることのない私には理解不能ですが、結果的にこのような方々が若者の夢を支援しているということになるのでしょう。
何はともあれ、ハマれるもの(趣味)があるのは羨ましい限り。

エンタメも実力だけで表舞台に立つことはできません。どんな場所からどうアプローチするか、その過程で誰に見つけてもらえるか、そんな事も重要になってきます。
運にも左右されるというシビアな世界です。
この男子たちが、いつかドームを埋めるような表舞台に立つことが出来るといいなぁ。。。などと思いながら、甘いドリンクを啜った午後なのでした。

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新大久保でチキンなら『南大門チキン』がおすすめ!ちょっとピリ辛ナンニョムとニンニク風味のカンジャンにハマりました。

先日、突然チキンが食べたくなり、久しぶりに娘と二人で新大久保へランチに出かけてきました。

夏休みも終わったことだし、少しは混雑も緩和されているかしら?と思いきや、あいも変わらず竹下通り並みの人出で混雑していました。

さて、今回は新規開拓しようと、いつもとは違う店に行って参りました。




『南大門チキン』

新大久保の駅からすぐ。『韓定食 南大門』という大きな看板が出ている建物の1階にあります。

入口は脇にちょこんとある感じで、間口は狭くなっています。

開店時間の少し前に行きましたが、すでに8人ほどの人が並んで待っていました。
入口脇に名前を記入する紙があるので、名前を書いて待ちました。

店内は鰻の寝床のような縦長で、席数はそれほど多くはありません。


ランチのメニュー

フライドチキンのメニューは「チキンセット」と「チキン定食」があります。

今回はこちらの「チキンセット」のカンジャンチキンとヤンニョムチキンをそれぞれオーダーしてみました。

こちらのセットはチキンにフライドポテト、そしてお約束のキャベツの千切りと大根の甘酢漬け、ドリンクがついてきます。

ドリンクはソフトドリンクなどいくつかチョイスがありますが、私はいつもこの甘い韓国版サイダーです。

チキンがくるまでキャベツと大根を摘んで待ちます。


こちらのキャベツの千切り以外に、チキンと一緒にさらにキャベツが付いてくるので、ドレッシングも持ってきてくれます。

お箸やナフキンなどは、韓国の飲食店でよくあるように、テーブルの下の引き出しに入っています。



ナンニョムチキン

お待ちかねのチキンです。
一つ一つのチキンがかなりの大きさです。それがゴロッと5つ。
結構なボリュームです。


このナンニョム、これまで食べた他店のものと比較してもかなりのピリ辛で、辛いもの好きにはもってこい。

しっかりソースが絡まっているのに、衣のカリカリ感も残っていて、お味よし、触感よしでとっても美味!

カンジャンチキン


いつもチキンを食べにくるときは普通のフライドチキンとナンニョムなのですが、ここではカンジャンをオーダーしてみました。
しかし、それが大正解‼︎

味は結構濃い目でちょっと甘辛なお醤油ニンニク風味。これがまた食欲をそそるお味で最高でした。

韓国や新大久保で食べるチキンは、だいたいどこも美味しくて満足するのですが、ここはひとくち食べて、「なにこれ!美味しすぎる!」と感動してしまいました。

大ぶりなチキンはジューシーで、衣はサクサクっと硬め、なによりも味付けが絶妙!
ナンニョムといいケジャンといい、どちらも私の好みとバッチリ合っていました。

お値段の方も上の写真にあるように、
ナンニョム、カンジャン共にチキンセットは1080円(税抜)。
このボリュームにドリンク付きなので、とてもリーズナブルだと思います。

新大久保にはまだまだ訪れたことないチキンの店もありますが、もう新規開拓せずともいいかな。。。と思うほど、本当に美味しかったです。

今回は小食の娘と二人ゆえ、ナンニョムとケジャンのチキンセットしか食べることが出来ませんでしたが、チーズを絡めてみたり、他の食べ方をしたり、チキン以外のメニューもお試ししたいので、大食らいの外国人夫と来ようかなと思いました。

この日も二人で10ピースのチキンを完食出来なかったので、お店の方にお願いしてテイクアウト用に包んで頂きました。
その日の夕方に食べましたが、冷めても十分に美味しく頂けました。

とにかく、こちらの『南大門チキン』さんは、リピート確実です!
新宿へでも行った際は、途中下車して晩御飯にテイクアウトしたいくらいです。

これを書いているそばから、もう食べたくてたまらなくなってきました。
本当にハマるお味です。。。

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邪道ですが、私流ブログ記事のネタ切れに困らない方法とは、人様の役に立つ記事を書こうなどとは思わない事です。

このブログは専業主婦が暇に任せ、趣味で書いているようなブログですが、それなりに面白いものにしたいとの思いもあり、時にはあれこれブログというものについて学ぼうとサーチすることもあります。

そこでよく目につくのが、「ネタがない!」という話題です。

多分、このように言っておられる方の目指すところは、書いた記事の多くが検索上位に表示され、相応のアクセス数を得られる記事(ネタ)ということなのでしょう。




ネタ切れになる理由

ネタとなり得るトピックは、コンテンツの質にさえこだわらなければ、いたるところに転がっているといえます。

しかし、吟味されたネタで、練られ考えられて作られた素晴らしいコンテンツを掲載しなければ!と思えば、お話は変わってきます。

多くの人が興味を持っている

多くの人が知りたがっている

多くの人のお悩み解決になる

多くの人をスッキリさせる

などなど、そのような高きハードルを課してしまったが最後、このような条件を満たし、クリアしたコンテンツとは一体どんなものなのか?
もう何を書けばいいの⁉︎ と、思い悩んでしまうのも理解できます。

私はブログを始めてから丸々2年以上になりますが(はてなブログは1年強ですが)、ネタ切れを感じたことは一度もありません。
これ、嘘ではなくいつも管理画面には、下書きしスタンバイしている記事が最低でも10件はストックされている状態です。

それらの記事はほとんどが最低でも2000字以上のボリュームがあるので、そこそこ時間をかけて書いたものです。
それでも書いたものの大半は、検索にヒットすることなく埋もれていきます。

つまり、なんの戦略も立てず、ただ自分の書きたいことを好きに書くだけなら日の目は見ないけれどネタ切れとは無縁ということなのです。

アクセスもドーンと集まって、なおかつネタ切れ知らず。
そんな大それたことは出来ませんが、ただ単に「ネタ切れをなんとかしたい!」というのであれば、簡単なことです。

それはハードルを下げればいいだけ!

人様の役に立つ記事を書こうとしない

アクセスが集まるブログとは、イコール人様の役に立つコンテンツとされています。
私も読む側の立場なので、そんな記事に大いに助けられています。

しかし、そのような素晴らしい記事を量産できるのは、ブログを仕事にしている人、ブログに命をかけている人、とっても頭も要領もいい処理能力に恐ろしく長けた人、そんな方々なのでしょう。
普通は万人の役に立つコンテンツなど、毎日のように書ける人ばかりではありません。

しかし、だからと言って趣味でやっているようなブログの需要がゼロかといえば、そんなわけでもありません。
数は多くないかもしれませんが、書けば「なるほどなぁ。。。」と、読んでくれる人もいます。
そんな記事が積もり積もって、まとまったアクセスを生むなんて事もあるのです。

雑念を摘み取る

人の思考は常に動いています。

お腹すいた。。。

羊羹食べたい。。。

今夜は鴨南蛮にしようか。。。

その瞬間、瞬間で常に何かが頭に浮かんでいるものです。

私の場合、そんな何の気なしに考えている雑念のようなものがブログ記事となる事も多いです。

羊羹が食べたい→羊羹を買いに行く→羊羹を食べる→ブログ記事になる

こんな具合です。
食べた物のご紹介以外の記事も同様です。
人と話していて面白いと思ったトピックについて反芻する時、テレビや本、雑誌などで「なにこれ?」と興味を惹かれたことと出会った時、嫌なことがあって悶々とそれらに悩まされている時、そんな頭の中に出てくることが、全てブログのネタとしての可能性をもっているのです。

つまり、その瞬間、瞬間、頭に浮かんだことは、そのままネタになるということです。他人が読んで面白いかつまらないかは別として。。。




記録を残す

そんな心に引っかかってきた事は、ブログの下書きとしてタイトルに残しておきます。

そして時間のあるときに、そのトピックに関する自分の知識やオピニオンをまとめ、足りないところはググるなり人に聞くなりして補い、記事を書きます。

私は頭の中にあったことをすぐに忘れます。
なにぶんキャパが小さいので、忘れないことには新しい情報が入ってこないのです。
しかし、何でもかんでも忘れてしまっては、日常生活に支障をきたすので、その防止策として、何でもかんでもメモをとるようにしています。

家にいるときは付箋がメモ帳がわりです。自分がいつもいる場所(キッチンとダイニング)に大中小と大きさの違う付箋を置いておきます。

あら、粒胡椒がないわ!
と思ったら、側にある付箋に「粒胡椒」とメモ。

ショップチャンネルで気になる化粧品などを見かければ、それもメモ。

ブログネタが閃いたら『はてなブログ』の下書きにメモ。

そんな感じで記録しておきます。

外出中などに使用するのはスマホのメモ帳アプリです。
記録しておきたい事が思い浮かんだら、路肩に立ち止まり、即座にメモします。
面倒なようですが、時間にすればわずか数十秒。習慣化されてしまえば大した手間ではありません。

アンテナをブログのチャンネルに合わせておく

私とて、一日中ブログのことばかり考えているわけではありませんが、頭の隅っこの方には置いておく努力はしています。
時折忘れていることもありますが、それほど夢中で何かを考え、行動しているほどのことなら、後からでも思い出すことはできるので、問題ありません。

ネタがない!と悩んでいるような時なら尚更、強く「ブログ、ブログ、ブログ。。。」と脳に刻みつけておく努力をするべきでしょう。
そうしているうちに、ブログアンテナがつねにオンの状態が普通になります。

行動すればネタは生まれる

長いこと生きていると、それだけネタになるようなお話も頭の中にあったりします。
全てをさらけ出せる訳ではありませんが、10分の1くらいは小出しにできるものがあるものです。

しかし、それだけでは煮詰まることもあります。うまい具合に記憶の引き出しからネタを取り出せなかったり、出せてもどう見せていいのか迷うこともあるので、頭の中にだけ頼るのも心もとないのです。

そんな時、いつもとは違った行動、つまり人に会ったり、普段は行かないような場所を訪れたりと、何かしら行動することによって、新しい出来事が起こったり、気づきがあったりするものです。

新しい出来事がかつての経験とリンクして、うまい具合に切り口が見つかったりすることもあるのです。



これは私が常に自分に言い聞かせていることですが、「アクションを起こせば、必ずリアクションがある」ということ。
物事が停滞した時こそ、自分から行動して攻めなければ始まらないのです。
吉と出るか凶と出るかはわかりませんが、どちらにしろそれはネタの一つとなり得るのです。

ネタどう料理するかは自分次第

以上のことを念頭に生活していれば、とりあえずネタ切れを起こすことはないでしょう。
そのネタをどう育て、膨らませるかはその人次第。
深いことは考えずに、私のようにただ思いつくままに書くだけならアクセスも集まりません。しかし、たまに紛れ当たりで検索上位に浮上するという幸運に恵まれる事もあるので、これはこれで書かないよりはマシと言えましょう。

また、思いついたネタについてさらにリサーチし、ターゲットを絞り込み、検索にかかるようなタイトルや内容を練りに練って書くことをすれば、ひょっとしたらグーグルさんから高い評価を得られるかもしれません。

どれだけの熱量をもってブログに取り組めるか、それで大きく結果が変わるのは間違いないでしょう。

ブログをやる目的

ブログをやっている人は世間にゴマンとおりますが、その目的は様々でしょう。

日記や備忘録がわりに何かを書きたい
自分の経験を伝え人の為に役立てたい
ブログ収入で生活がしたい
本業のアドバタイズに使いたい

他にもたくさんあるはずです。
私もブログを始めたきっかけは、パソコンの勉強になるかなと思ったこと、また趣味がないので老後のライフワークになったら楽しいだろうと思ったものです。

続けて行くうちに、備忘録のような役割が加わり、アドセンスがちょっとしたお小遣い稼ぎになったりと、他の要素も加味されていきました。

しかし、あくまでも趣味の一環としてやっているので、深くは考えずに楽しんでいます。
難しいことは脇において、とにかく楽しく継続したいという気持ちが、ネタ切れにならない一つの要因ではないかと思っています。

書かなければ始まらない

「継続は力なり」とはよく言ったもので、書き続けていれば書くことが当たり前と感じられるようになります。
最初は苦手だったことも、毎日続けることによって慣れが生じて苦痛でなくなります。

とはいえ、嫌いなこと、苦手な事を続けるのは辛い事です。
もしも書くことが好きでなかったり、苦痛だと感じるのであれば、ブログではなく他の好きなことにシフトするべきです。

逆に書くことは好きだけれど、何を書いていいかわからない、ネタがないというのなら、それは考え方を変えればいいだけのこと。
アクセスや他人の評価にこだわりさえしなければ、どんなことでもネタになり得るのです。

ブログをやる上では、どんな立派なネタでも書かなければ意味がありません。
ネタがあってもなくても、何はともあれ書くことです。
書いていれば、何かしら新しいアイデアが浮かんできたり、新たな動きも見えてくるはずです。



プロブロガーでもないのにアクセスに一喜一憂し、その挙句に書けなくなり、ブログをやめてしまうくらいなら、ちょっとハードルを下げて、まずは継続することを目的にしたらどうでしょうか。

続けていれば、読んでくれる人も増えてくるものです。
このブログでさえ、これほど自己満足に書き殴っているだけなのに、アクセスは上がっています。
それは積もり積もった記事一つ一つが貢献してくれているからです。

SEOだのなんだのと難しい事はサッパリだわ。。。と、そんな人はなによりも「書く」こと「継続」することです。

「シンプルな暮らし」「ミニマルライフ」とお金の関係について考えていたら、豊かさの本質がわかった気がした件。

9月になり、あの猛暑はとりあえずひと段落したような、カラッと涼しい気持ちの良い朝が多くなってきました。

カフェのテラス席などに座っていると、ちょっと肌寒さを感じたりすることもあり、そろそろ衣替えの季節だなと、ざっとクローゼットなどをいじり始めています。

着ない服はほとんど処分するか、娘が欲しがればあげたりで、相変わらず手持ちの服は多くありません。かといってミニマリストほどシンプルでもないというところに適当さ加減が出ています。



なにごとも無駄なくスッキリ!

綺麗に!シンプルに!

普段からそんなことばかり言っていますが、いざスッキリし過ぎると、なんだか見すぼらしくなるのも嫌だわと、誰に張るでもない見栄が顔を出したり、私はミニマリズムなんて流行には乗らないわよ!とばかりに、へそを曲げてみたり、結局はただの断捨離癖を持つおばさんといったポジションを長年キープし続けています。

私は何事もシンプルなものが好きです。物でもなんでもシンプルが一番と考えています。
それでも何故か、ミニマリズムというものに心惹かれません。それは一体何故なのでしょうか?

シンプル生活の流行

物を持たない「シンプルな暮らし」とは、もはや流行といってもいいでしょう。

いつの時代もそのような生活をしている人はいましたが、かつてはこれほど話題になるようなことはありませんでしたし、現在のような素敵なイメージもありませんでした。

しかし、昨今では本屋さんなどで関連本を見かけることも普通になりました。もちろん買うことはありませんが、興味がないわけでもありません。
それはシンプルに暮らすことに対する興味ではなく、なぜそのような心境になるのか、またいかなるメリットがあるのか、そんなことに対してなのです。

お金を出してまで本を買おうとは思いませんが、時折ネットの記事やブログなどで色々なサイトを読むこともありますが、実践者の方々は皆さん一様に、

「物を持たないことで心が豊かになった」

と、そんな風に言っています。

私も専業主婦なので、暇さえあれば断捨離など不用品の整理を日常的にしていますが、この感覚がイマイチよくわかりません。
時にまだ必要なものまで捨ててしまい困ってしまうこともあるほど、調子にのるとすっからかんになるまで捨ててしまったりして失敗する事もあります。
以前、リビングのソファーまで処分してしまい、家族から大顰蹙を買ったこともあり、以来気をつけてはいますが。。。

しかしです!そこまでしても私は心が豊かになるとまでは思えないのです。ただ「スッキリした」とか「掃除がしやすくなった」程度です。

物を持たないことで心が豊かになるとは、一体どういうことでしょう?




煩悩のコントロール

物を持たないとは、買わないから物が増えないのか、買っても別のものを処分するから増えないのか?
そもそも欲しくないのか?
欲しいけど、ミニマリストになりたいから欲しがらないようにしているのか?

色々と疑問が湧いてきたりするのでさらに傾向を探ってみようとしましたが、あまりに千差万別と言いますか、ポリシーが見えずらく、よくわかりません。

これは私がミニマリズムに対してあまり知識がないせいなのかもしれません。
ただ、ミニマリストとしてのイメージをそのまま実践しながらも、表現法が異なるという複雑さしか感じません。

ただ、全体的なイメージとして、積極的に消費活動に精を出している人は多くないようですね。
つまり、このような方々はそもそも物を欲しがっていないということになります。
それは物を持たない方が豊かであると心底信じているからなのでしょう。

私も最近はすっかり物欲が減退して「欲しい物がないわ〜」などとよく言っていますが、それは買える範疇の物で欲しいものがないということです。もしも今、「これで好きな買い物をしてきなさい」と1000万円もらったなら、物欲の権化となり秒殺で使い切ることでしょう(笑)

それはまさに「煩悩のコントロール」です。シンプルライフによって得られる豊かな暮らしとは、煩悩から解放されたことで得られる開放感のようなものなのではないでしょうか。

あれが欲しい、これが欲しい、そんな物欲を持っていても肝心のお金がない、または遣ってしまってはその後の生活が不安で手がつけられない。
そんな人が物を持たないというポリシーを持つことで、満たされぬ欲を捨て去ることができるのです。欲がなければ気持ちは平和になります。この平和で楽な心の状態を「豊か」と表現されているのではないかと推測します。



手に入らない物を追い求めるよりも、欲を捨て手に入れることを諦めて「シンプルライフ」とちょっとオシャレにカテゴライズすることで不満は払拭され、何か「特別なことをしている自分」という満足感を得ている。。。そんな感じを想像するのです。

お金がかからず、一見するとお洒落な感じ。これが今の時代受けているのかもしれません。
修行僧のようにまるで欲のない生活をしているように見える方々も、結局のところその根っこはお金とは無関係ではないのではと思ったのでした。

ミニマリストであることは特別ではない

今でこそ「シンプルな暮らし」「ミニマルライフ」などという言葉がありますが、もしも余計な物を持たずにスッキリとした部屋でシンプルに暮らすことを指すのであれば、そのような人は昔からいくらでもいました。現在でも周りを見渡すと、そんなお友達はたくさんいます。しかし、誰一人として「ミニマリストなの」などと言っている人はいません。

世のミニマリストにありがちなビフォーアフターもので、「かつての私はこんなに沢山の物に囲まれて暮らしていました!」などと写真入りで掲載されているようなものを見ると、ゴチャゴチャと物に溢れた乱雑な部屋で暮らしていた様子が伺えます。しかし、世の中そんな部屋で暮らしている人の方が少ないのではないでしょうか。
普通に暮らしていれば、整理整頓や掃除は日常的なものです。そこまで物が溢れる前にどうにかするものです。

私もミニマリストではありませんが、物がないスッキリとした部屋の方が好きです。家族の部屋は治外法権なので手出しはしませんが、キッチン、リビング、ダイニング、玄関、バス、トイレットなど家族共有のスペースに関しては、なるべく大型の家具は置かずに、必要のない物はすぐに処分するようにしているのであまり余計な物はありません。
それは単にお掃除が楽だからという、専業主婦の知恵でもあるのですが。

私の友人宅も同様です。どこもスッキリとした生活をしています。納戸の中まではわかりませんが、少なくともリビングなど目につく場所にゴチャゴチャと物が置いてあるようなお宅はほとんどありません。

特にお金持ちのお宅などはショールームかと見間違うほどのスッキリ感です。余計な物など目につくところには何一つありません。その代わりに上質な家具が置かれていたりします。
お掃除もメイドさんがいるので常に床も棚もピカピカです。物は持たないけれど、高価な家具や家を綺麗に維持する人件費にはお金をかけているということです。
こうした方々は決して物を買わない訳ではありません。一緒に出かけても、素敵な物があれば買っているのをよく見かけます。
きっと上手く収納しているか、定期的に断捨離など持ち物の整理をしているのでしょう。

ミニマリストのブログ

ここでまたちょっと気づいたのです。
ミニマリストといっても、必ずしもお金を遣わない人ばかりではないということが!

様々なミニマルライフブログなどを見ると、中には家具や身につけている物など、なかなか高価な物を揃えている人もいます。
物を置かないことはお金を遣わないということではないというのがわかります。

シンプルな暮らしなら、それこそ立派なベッドなど持たず、マザーテレサさながらゴザ一枚、キッチンも素敵なシステムキッチンではなくただ小さなシンクと一口コンロでいいじゃない!というのは、私の勝手な思い込みだったようです。。。

そうなのです。一言でミニマリストといっても、そこには様々なタイプが存在しています。

これはミニマリストのブログなどを一通りのぞいて見ると明らかです。

もう何でもかんでも100円ショップや無印で、模様のない無地のもので揃えている人。

とにかく物は少なければ少ないほど良いと、ソックスや下着すら数枚しか持たない人。

お金をかけることを良しとせず、買わない暮らしを実践する人。

非文明的生活で精神性を追い求める人。

ここまで違ったタイプのミニマリストがいるとは。。。シンプルであるはずなのに、とても複雑です。

こうしたミニマリストのブログを読めば読むほど、ますますミニマリズムがわからなくなるです。

「豊かさ」と「お金」

よくお金がなくても豊かな暮らしはできる。そんな話を聞きますが、お金が大好きな私などは、なかなかそう思えません。

欲しい「物」はなくても、やりたいことは山ほどありますから。
「物」ではなく「事」です。
旅をしたり、人と会ったり、お肌を磨いたり、「物」として手元に残らずとも、「経験」「体験」という豊かさを得ようと思えばお金はかかります。

「物」ではなく「事」までも断捨離し、余計なことは一切せず、シンプルに毎日寝ているだけいいわ〜と言う人なら別ですが、行動そのものを断捨離している人はそうそういないでしょう。

人里離れた山奥に住まい、晴耕雨読の日々を過ごすのも悪くないかも⁉︎などと考えることもあるにはありますが、それが日常になってしまったら、果たして豊かさを感じながら暮らしていくことができるかどうか、自信はさっぱりありません。

お金があれば、スーツケース一つに私物を押し込め、その時々でライフスタイルを変え、身軽にシンプルに過ごすこともできるでしょうが、それとてお金はかかります。



やはり自分の思う通り、豊かな暮らしを実践するためには、ある程度の経済的余裕は必要ということです。

シンプルに暮らすというのは、案外難しい事なのかもしれません。
ただ物を持たないことがミニマリズムなのではなく、そうしたライフスタイルを含めトータルで考えると、それはそれは奥の深い生き方なのです。

恐るべしミニマルライフ!

豊かさの本質

なんやかんやと好き勝手言っていますが、ミニマリストだろうとそうでなかろうと、やはりシンプルとは良いものです。
人間関係にしろ、自身の考え方にしろ、生き方にしろ、居住空間にしろ、複雑なのは面倒です。
それで自分の心が荒れるくらいなら、なんにも持たない方がいいわよと思うのは納得できます。

まさに、それこそが豊かさの本質なのかもしれません。

わからなかったのは、ミニマリズムとかミニマリストとかミニマルライフなどという横文字言葉が流行したせいです!
なんだか洒落たことを連想させるこの言葉が、余計なイメージを作り上げて、シンプル脳を持つ私のような人間を混乱させたのでしょう。

人の生活を勝手に美化して、不幸になれと願われても、ご期待には添えかねますとしか言えません。

ここのところ、お天気はあまり良くないのですが、涼しくなったせいか、俄然元気になって社交生活を復活させています。

先日は学生時代からの古い友人と久しぶりに会いました。
若い頃は仲が良かった人でも、この歳になると、生活レベルにも違いが出てきて関係がうまく行かなくなり、疎遠になる人も多くなるもの。
私も古い付き合いはほとんど途絶えていますが、中には今回のお友達のように、若い頃から変わらずお付き合いできる人もいます。



そんな古い友人から聞く噂話のあれこれは、本当にビックリさせられるものも少なくありません。
昔の知り合いの動向など興味はありませんが、自分の事が噂されているとなると、どんな話なのか興味がわきます。

私は普段戸籍上の名を表に出すことはありません。本籍地も変え、外国人夫の姓を使ったりと、結構適当に名乗っていたりするので、古い友人達は私の事を見つけることはできないようです。
当然同窓会などの案内も来ませんが、そのような集まりにはまったく興味がないので困ることはありません。

唯一、今でも仲良くしているそのお友達も、私がそんな考えでいるのを知っているので、聞かれても教えないらしいです(笑)

最近、かつては共通の友人であった人から、私の事をあれこれ聞かれたといいます。

「日本では生活できないからと、家族で海外へ渡りジリ貧の生活を送っているんじゃない?」

「派手な生活で破産してたりして」

その人は昔からそんな事ばかり言っていたものですが、あいも変わらず私に貧乏になって欲しくて仕方がないようです。
その人と会わなくなったのも、ネガティブな事ばかり言ってくるのが面倒になったせいです。

約20年前、比較的お金持ちと結婚したその人と、何にも持たない外国人夫と結婚した私とでは、生活がまったく違いました。
裕福な旦那様の実家で同居生活を送り、経済的な心配もせずに悠々自適であったその人に比べ、私はといえば文無し外国人を育て上げるべく、海外へ出たり日本へ戻ったりしながら、試行錯誤落ち着かない生活を送っていました。

その頃はとても親切で応援してくれていたその人ですが、様子が変わり始めたのは、外国人夫の収入が増えてきた頃からです。

私は子供ができたこともあり専業主婦になりました。経済的にも安定し、お姑さんもいない、なんのしがらみもない生活に満足していました。

そんな私の様子を見て、

「そんなのんびりしているとお金に困るようになるわよ」

「なんで子供を私立になんか行かせるの?」

「なんでそんないい所に住んでるの?お金をドブに捨ててもいいの?」

そう、何かにつけお金の事を口にしてくるようになりました。

私も堅実なタイプではありませんが、さすがに子供が2人もいれば、無茶な生活などできません。
住む場所や子供の教育などは、投資になると判断したからこそで、無駄金を遣っているとは思っていません。

それでも、その人は私の暮らしに難癖をつけてくるようになったのです。
それは何年も続きました。まるで呪いのように。。。
「家賃が払えなくなって追い出されてもしらないわよ」
「子供が大きくなっても大学に行かせるお金すらなくなるわよ」
「働きもせずにのんきにしているなんて、将来何があっても知らないわよ」

もう、全てがネガティブなのです。
実際にその人は私がどんな資産を所有しているかも、外国人夫がどの程度の収入があるかも知りません。
遠回しに聞かれたことは何度もありますが、そのようなことは他人に公表することでもないので、黙して語らずできました。

共通の友人にも、「彼女の旦那、そんなに稼いでるの?」「なんで彼女はずっと専業主婦で働かないの?」などと、尋ねているらしいです(笑)

とにかく、私のお財布の中身が知りたくてたまらない様子でした。
私自身、派手な生活などしてきた覚えはありません。
その人が一番気に入らない私の生活とは、すべて外国人夫あっての生活です。
海外へ行くのも、住む地域にしても、子供の学校にしても、外国人である夫側の文化も尊重しようということで決定したことです。

もしも私が北海道の奥地に住まう日本人男性と結婚していたら、また別の場所で別の生活をしていたはずです。
どんな生活をするかは連れ添う相手によっても変わるものです。

その人自身は長男と結婚したからこそ夫の実家で同居生活をしているのです。家賃も光熱費も税金もすべて親持ちという、恵まれた待遇を望んで同居を決定したのです。

自分がそれなりの生活をしているのだから、人のことなどどうでもいいだろうに、なぜ人の生活にまで苦言を呈してくるのが、まったく分かりませんでした。



最後に会ったのはもう何年も前です。私はすっかりその存在を忘れていましたが、共通の友人を通して、未だに同じことを言っていたことに驚きが隠せませんでした。

聞かれた際、友人が
「フランキーは相変わらずよ。普通に専業主婦やって、のんびり暮らしてるわよ」と、告げたところ、

「まだ、あんな贅沢な生活をしてるの?」

「歳をとってから、いつか生活できなくなるんじゃない?」

「きっと貯金なんかないわよね。」

などと、まだ同じようなことを言っていたといいます。

何故そこまで人の生活に干渉したがるのでしょうか。
もう何年も会っていない相手などどうでもいいはずなのに。。。

「それは、あなたが何の苦労もなく、勝手気儘に生活しているように見えるからかも」

友人に聞くところによると、その人は生活自体は旦那様の実家が面倒を見てくれるため不自由はないようですが、自分の自由になるお金がなく、もう何年も前からパートで働いていると言います。おまけに姑、小姑に気を遣う生活に嫌気がさしているとも語っていたそうです。

「彼女は本来なら、あなたみたいな生活がしたかったのよ」

だからこそ、私の生活が気になって気になって仕方がないのでは?と。

私はあまり人に弱味を見せることはしません。どんなに窮地に陥っていても、それを表に出さないようにしています。
弱い面を曝け出せば、それに乗じて攻撃をしてくる人もいるからです。
どんなに苦しい時も、逆に絶好調の時でも、つねに表にはニュートラルな状態を見せるようにしています。
そのせいで、私が抱えてきた苦労も苦悩も知らないのでしょう。

それは決して人が羨むような生活ばかりではないのです。まさに隣の芝生は青いということ。

苦労のない人生を送っている人などいません。長い人生の中では、誰もが苦しい局面を迎えることもあります。
経済的な問題だけではありません。病気をしたり、子供や夫婦間の問題、仕事の人間関係に親兄弟との確執。
誰もが色々なものを背負って生きているものです。

違うのは、それを嘆き悲しみ表に出すか、苦しさをグッとこらえて笑顔で前に進もうとするかです。



いつも能天気に笑って過ごしているように見える私とて同じです。
いい時ばかりではないけれど、恨みつらみを吐き続け、人の不幸を願っている暇があるなら、自分の抱えている苦しみから脱するための努力にその時間を費やしたいと思っています。

人に不幸を願われるなど、決して気持ちのいいことではありませんが、人の口に戸は立てられないと言いますから、それは不可抗力というもの。

「勝手にこちらの生活を美化されて、勝手に五寸釘打って呪われても、ご期待には添えかねるんですが。。。」

などと言ったところ、友人から、

「そういう、おちゃらけた事を言うふざけたところも気に入らないのよ!」

なんて呆れられてしまいました(笑)

今に至ってはそれくらいしか言葉が見つからないのですが。。。

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