お菓子を巡る暮らしの雑記帖

アラフィフ主婦が美味しいお菓子とともに過ごす毎日を思いつくまま綴るブログ。食、家事育児、国際結婚、ブログなど。。。

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成人の日に高野悦子の『二十歳の原点』を読み返しながら、成人する娘とかつての自分を振り返り考えたこと。

今週のお題「二十歳」

東京では今日が成人式でした。
晴れ着を纏い笑顔で街を歩く若者を見ると、こちらまでとても華やいだ気持ちになります。

一方で、若いからといって、すべての人が幸せの只中でこの日を迎えているわけではないのだろうとも想像します。
万人にとってハレの日であっても、無条件にそれを喜べる人間ばかりではありません。
「おめでとう」と言われることに戸惑いを覚える若者もいるはずです。

思い起こせば三十数年前、かつての私がそうでした。

成人を迎えることの、なにがそんなにおめでたい?

なにがどう変わるというの?

などと思っていたものです。









最近、久しぶりに本棚に並んでいた古い本を読み返してみました。

私がまだ十代の頃に、激しく心を揺さぶられた一冊です。

とても古い本です。

この本を初めて手にしたのは、私が十七歳の時でした。
まだ高校生であり、常にどうでもいいことに煩わされているような、退屈で時間だけがたくさんあった頃のことです。

『二十歳の原点』高野悦子




二十歳の原点 (新潮文庫)



1960年代、当時京都の立命館大学の学生であった一人の少女が、心の迷いや痛みを吐き出すように書き綴った日記が、後に『二十歳の原点』として書籍化されました。

著者である高野悦子さんが心の拠り所として書き綴っていた日記で、闘争について、恋愛について、そして人生について、深く内省を繰り返す様子が日常生活と共に感性溢れる文章によって綴られています。

そして、この日記の半ばなのか、本人にとってはそれが終わりであったのか、自らの命を断つことで終わりを迎えます。

一人の少女によるパーソナルな日記は、その後大きな話題となりました。

ここ数日、この本をパラパラをめくりながら、今年成人式を迎える娘のことを考えていました。

「成人すること」に対して、どんな思いを抱いているのか、私自身のその時をどう感じていたのか。。。









「独りであること、未熟であること、これが二十歳の私の原点である」


当時、この一文の意味が理解できず、私は何度もこの本を読みましたが、結局その当時は答えを見つけることはできませんでした。

同時に、わずか二十歳の学生であった若者が、なぜここまで成熟した思想を持っていたのか、どうしたらそこまで人生を深く考えるようになったのか、そのことにひどく興味を惹かれたものでした。

学生運動の盛んだった時代です。若者にとっては常に身の周りで何かが起こり、そこから置いて行かれたくない、何かしなければといった、気持ちを急きたてられるような熱い空気が若者社会の中に蔓延していたのかもしれません。
そんな社会に生きていれば、自ずと様々なことを考える機会が当時の学生にはあったのでしょう。

この著者も権力に対して怒りや虚無を感じたり、うまくいかない恋愛に失望と諦めを感じたり、若者特融の感情にゆさぶられながら、日記にその心のうちを吐き出していたのでしょう。

「人間であること、人間を取り戻す闘い」と記しています。

そんな闘争の時代から遅れて生まれてきた私には、当然理解できないことでした。

私からすれば自分が未熟であるということは悲観すべきことではありませんでした。むしろ未熟であれば、やがては成熟していくこともできるかもしれないのだからと。

私はすでに不完全であって、それは二十歳になれば、いよいよ取り返しのつかないことになる。。。そのことの方がより深刻であると真剣に思っていたのです。

こんな風に考えるのも、実は若さ故の未熟さと傲慢さによるものであると今ならわかります。

この本に感銘を受けたのも、すでに自分の人生が完結でもしてしまったかのような、心のどこかに失望のようなものを抱えていた時期だったからかもしれません。


しかし、完全なる大人になってしまった今ならわかります。

当時の私は、だだ自由にはなりたかったけれど、大人にもなりたくなかっただけ。

まさに自由であることは「ひとりであること」、そして大人になりたくなかったのは「未熟」であること。
それが、自分にとって『二十歳の原点』だったのかと今になってわかります。







迷いや苦悩を抱えた時、人は様々な書物に答えを求めようとするものです。
きっと、この『二十歳の原点』もそんな本なのでしょう。

二十歳の若者のみならず、人生に迷った時にこの本を手に取る人もいるといいます。

読者は我々のような年代の人が懐かしく手に取るだけでなく、20代の若い読者も少なくないそうです。

若者が迷い、悩み、自分がどこにいるのか、どこへ向かっているのかわからなくなったとき、道標を探す途中で出会う類の本なのかもしれません。

ちなみに、この『二十歳の原点』、とても古い本ではありますが、現在でも増刷され続けています。

『二十歳の原点』よりもまだ若い時分にかかれた日記も、『二十歳の原点序章』『二十歳の原点ノート』として出版されています。

驚いたことに、amazonでみたところ、『二十歳の原点』はコミック版まで出ていました。




コミック版 二十歳の原点



諦めと期待がないまぜになり、とうとう行き場を失った気持ちが、どうにもできなくなった時、どう考えたらいいのか、そんな気持ちにどう落とし前をつけたらいいのか、この本の中に答えはありません。

ただあるのは、一人の少女がなにを考え、死を見つめながらもどう生きていこうとしていたか、そして結論を出したその先に、未来はなかったということだけです。

私がこの本をいまだに大切にしているのは、「考えること」を教えてくれた本だからです。
小さなこともおざなりにせず、きちんと向き合い、真剣に考えなければいけない。
そう思えるようなきっかけとなった本でもあったからです。


先日、娘にこの本を読んでもらいました。
SNSの発達した、全く違った時代を生きる二十歳が、どう感じるのか。興味があったのです。

退屈だと途中で放り出したとしても、それはそれで一つの答えだと思っていましたが、意外なことに「面白い」という感想でした。

「私の大学のお友達にも、この人のような子は何人かいるよ」

「親や友達の前では明るく振る舞う反面、どこか病んでいて、常に死を考えているような子が」

「あの時代は日記だったけれど、今はTwitterなんかを見れば、そんな子はたくさんいる」

時代が変わっても、若者の苦悩は同じなのかなと、暗澹たる気持ちになりました。









迷っている人、傷ついている人ほど、人前で声を上げることなく、ひっそり自己と戦っているものです。

たとえその闇を見つけたとて、

頑張れ!

大丈夫!自信を持って!

あなたは一人ではない!

いつか必ずいいことがある!

そんな言葉を安易に吐き出すことは、できません。

時に人はその痛みを知らないにも関わらず、平気で無責任な言葉を一方的に投げつけてきたりします。
それは必ずしも嘘ではないけれど、そんな言葉で人の心に寄り添うことが、人を救うことができるでしょうか。

そんな言葉で救われる人ならば、自分の傷を堂々と人に見せることができるでしょう。

この本を読んでいると、そんなことがよくわかります。

唯一、救いがあるとすれば、それは自分自身によって気づきを得ること。
あるいは、その答えを時間にゆだねることです。

諸行無常。。。物事はつねに変化しています。人間も然り。
どんなに今がドン底だと思っても、それは日々変化しているのです。
時間にゆだねるということは、そういうことです。

どんなに足掻いても、どうにもならないのなら、唯一できることは、時間に解決してもらうことでしょう。
しかし、それとて時間のある(未来)人間にのみ許されることです。

この歳になって『二十歳の原点』を改めて読み返してみても、恐ろしいほどの感受性の強さと、自己の心を真正面から見つめ内省する姿に驚くばかりです。

それと同時に、彼女もあと少し長く生きていたら、見えている景色がまた別なものに映ったかもしれないと、残念に思うばかりです。






二十歳の原点 [新装版]







二十歳の原点序章 [新装版]十七歳から十九歳の日記






二十歳の原点ノート [新装版] 十四歳から十七歳の日記





さて、我が家の長女も今年が成人式でしたが、着物を着て式に出席はしませんでした。
それは本人の選択です。

この親にしてこの子あり。。。
私も同じでした、みんなと同じように着物を着て、退屈な式に参加することは自分がしたいことではなかったのです。
その代わり、両親からは「本当にしたいこと、欲しいものがあればなんでも言いなさい」と、今から思えば、やはり親も変わった人達だったのかなと思います。

結局、私は成人式でかかったであろう費用よりもさらに多くの出費をしてもらい、自分のしたかったことをして、欲しかったものを手に入れました。

そして今年、娘もかつての私と全く同じ選択をしたのでした。

本来なら父親が反対するところでしょうが、幸い外国人にとっては晴れ着を着て成人式に出向くという文化はないので、揉めることもありませんでした。

娘は今頃、同級生達とパーティーの真っ只中、大いに楽しんでいることでしょう。

我が家の二十歳は、世の中を悲観することなく、やりたいことをして、自分の人生を楽しんでいます。
もう、私が言うべきことはありませんね。。。

我が家の外国人夫は、家族みんなでディナーへ!と期待していたようで、とても残念そうですが(笑)