お菓子を巡る暮らしの雑記帖

アラフィフ主婦が美味しいお菓子とともに過ごす毎日を思いつくまま綴るブログ。食、家事育児、国際結婚、ブログなど。。。

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『貧困専業主婦』という言葉の衝撃に惑わされるべからず。幸せは自分軸で考え、行動して得るものです。

ネットでニュースなどを流し読みしていると、時折専業主婦関連の記事を目にします。
そのほとんどがネガティブな記事なのに加え、もはやアラフィフの専業主婦は対象外?といった内容のものが多いので、ほとんどの場合、さらっと斜め読みをして(一応は読んでみる)「なるほどね!」で終わることが多いのですが、先日『貧困専業主婦』という言葉を見て、「あらま!とうとうここまで言われるようになってしまったのね」と、現役専業主婦としては結構な衝撃を受けたのでした。







その後もたびたび目に飛び込んでくる『貧困専業主婦』という文字。。。
専業主婦はそれほどまでに悲惨な生き方なのかしら。。。

『貧困専業主婦』だなんて、なんだか嫌な呼び方だわ。。。と思いながら、アップするつもりもなくぶちぶちと書き綴っていたのですが、せっかく書いたのだし、今年のモヤモヤは今年のうちに!ということで、ブログの下書きを大掃除です。

こういう話になると、どうでもいいことをつらつらといくらでも語ってしまうので、興味のない方は、別のお菓子記事へどうぞ。美味しいものがたんまりあります(笑)

例えばこんな『カヌレ』など。。。
www.hw-frankie.com


貧困専業主婦

『貧困専業主婦』というセンセーショナルな言葉、一体どこから湧いてきたものか?
どうやらその出所は、そのようなタイトルの本があり、少し前に某新聞に著者のインタビュー記事が掲載された事で、広く認知されるに至ったようです。
(ここではあえてその著書には触れません。実際に読んでいないので。。。)

掲載後、巷の専業主婦から憤りのご意見が集まったと言いますが、確かにいきなり『貧困専業主婦』などという品位のない言葉を投げられれば、さすがに悪意すら感じてしまいます。
せめて『清貧専業主婦』とでも言ってくれればまだ耳触りもよかったのに。と思いつつ、それではインパクト不足で本の売り上げにも影響するのかしら?などと思ってみたり。。。
それにしても、どこかヒトを見下げたような言葉に感じてしまいます。

しかし、ここでカッとならず冷静に考えてみれば、本来は夫婦共働きでなくても、十分に生活が成り立つ家庭だからこそ専業主婦でいることを選択できるのでは?という疑問がわいてきます。
貧困呼ばわりされる覚えはございません!ということです。

それなのに、いつの間に専業主婦家庭は「貧困」というイメージをもたれるようになったのでしょうか?

私はちょっと混乱しております。。。







貧困専業主婦の定義

世帯年収が4人家族で244万円以下、3人家族で211万以下というのが「貧困家庭」に当てはまるといいます。
そんな家庭において18歳未満の子供を有する働いていない主婦が『貧困専業主婦』と呼ばれるのだそうです。

なるほど。。。確かに244万で家族4人生活せよ!と言われたら、私なら無理です。仮に東京で家賃を払い、学費を払い(これは高校までは所得により免除となることもあります)、普通の生活を送ろうと思えば、ほぼ不可能であると断言できます。

しかし、一概に年収だけで「貧困」であると決めつけるのもどうなのでしょう。。。

都会の家賃も物価も高いところで暮らしている人と、田舎のただ同然の土地で、半時給自足している人とでは、支出も大きく違います。と、これまた極端な考えですが。

年収244万。月ならしにすると約20万円。これで家族4人の生活は確かに都会では不可能です。
しかしもしも質素な田舎暮らしだとしたら、それは「貧困」といわれるほどの生活になるのでしょうか。

そもそも、年収244万という低所得の家庭であれば、国からの援助はあります。子供が2人いても、教育費もほとんど無償で高校までは通うことができます。
塾だゲームだディズニーランドだなどと言わず、最低限食べて寝て学ばせることはできなくはないと思うのですが。

「そんな生活をしたことのない人にはわかるまい!」と思われるかもしれませんが、私は昔、日本ではありませんが、海外の田舎町で暮らしていたことがあります。
子供達は普通に街の公立校に通い、私は専業主婦でした。
娯楽といえば、学校のママ達と手作りのお菓子を持ち寄ってのお茶会です。小麦粉と砂糖を混ぜた安価な手作りお菓子は毎日のように作って振る舞っても、いくらもかかりません。

たまに街のレストランで食事をしましたが、諭吉さんが飛んでいくようなお店は一軒もありませんでした。
お買い物をするような店はスーパー以外はなく、娯楽といえば山でスキー、海で海水浴といった自然に頼るものだけ。

つまり、お金を遣おうと思っても、遣う場所がない環境だったのです。
強いて言えば、どこへ行くのも車移動だったので、そのガソリン代くらいでしょうか。

今から思えばものすごく質素な生活でした。物欲などとは無縁で、毎日ただ早寝早起きという、すこぶる自然で健康的な生活を淡々と、そして落ち着いて過ごしていました。
それは「貧困」とは程遠い感覚で、むしろゆったりとした幸せな生活を送っていたなと思います。

なんせお金を遣う場所がないのですから、「お金!お金!」と躍起になることもなく、食べていける程度のお金さえあれば、それほど多くのお金は必要ないという感覚でした。

当時、外国人夫の収入は望むほど多くはありませんでしたが、入ったお金のほとんどはそのまま自分の元にとどまるのですから、何の問題もなく、少ないながらも蓄えができるくらいでした。

一方、現在はといえば、家賃も物価も恐ろしく高い都心暮らしです。一歩外に出れば、美味しいものが食べられる店が選り取り見取り、お金がいくらあっても足りないと思うほど、素敵な物があちらこちらに並んでいます。

不思議なもので、手の届くところにそんなものがあると、ついつい手を伸ばしたくなるものなのです。なければないで全く平気であっにも関わらずです。

加えて、収入が上がれば上がるほどに税金は重くなり、2人の子供の学費も丸々自己負担、とにかくいくら稼いでも稼いでもまるで羽が生えたようにお金は出ていきます。

幸いなことに夫の運と努力により、現在も不自由のない生活をさせてもらっていますが、果たしてどちらの方が人間らしい生活であり、幸せな暮らしなのだろうか?とわからなくなります。


それでも私自身の幸福度はといえば、今も当時も変わりません。
今の方が確実にお金を沢山遣って、あの頃に比べれば一見華やかな生活を送っているように見えますが、それを特別な幸せだとも不幸だとも感じません。

また、田舎暮らしをしていた時は、素敵なものに溢れたところで、贅沢に暮らしたいなどと思ったこともなく、幸せを実感しながら暮らしていました。

こうなると、なにをもって『貧困専業主婦』と定義するのか、ただ収入だけを取り上げ、他人の目から見た姿だけでそう定義していいものかいささか疑問です。

自分の望む最低限の生活を送れているのか?生活に困っているのか?

結局のところ、『貧困専業主婦』と判断するのは数字ではなく自分自身ではないのかということです。






怠惰な貧困専業主婦

つまり、数字ではないのです。自分にとって、「事足りている」こと。それが一番大切なのです。

私にとって「事足りる」とは、屋根のある家で眠り、お腹いっぱいご飯を食べて、家族みんなが健康であること。
最低限それがあれば幸せです。

それさえできないのが「貧困」だというのなら、そこから抜け出すために専業主婦などしていないはずです。

世の中には働きたくても働けない専業主婦が沢山います。そんな方は生活保護なり、なんらかの支援を受けるべきと思いますが、働けるのなら、そして自分が「事足りる」生活を送れていないと不幸に感じているなら、働くべきなのです。

『貧困専業主婦』についての新聞の記事を見て憤り、反論している人の中には、実際に生活するに十分な収入がないと感じている人もいます。

ここでまた、「なら、なぜ働かない?」と不思議になります。

「子供がいるから、子供を自分の手で育てたいから働けない」

「ブランクがあるから無理」

「いい仕事がない」

困っているにも関わらず、依然専業主婦を続けている人の多くは、そのように何かしらの理由をつけて貧困に甘んじています。
しかし、これは怠惰以外の何者でもありません。
それこそが「貧困」ということなのです。
貧困とは貧しくて困ると書きます。
貧しさは経済的なことだけではありません。心の貧しさもその一つです。
困っているのに手をこまねいているだけ、それこそが「貧困」と呼ばれる所以なのです。

記事の中にはいくつかのポイントが示されていました。

幸せな専業主婦

貧困専業主婦の4人中3人は、貧困でありながらも自ら専業主婦を選んでいる。

そんなことが書かれていました。
そして続く記事には、

貧困専業主婦の3人に1人は、自分が幸せであると思っている。そのため、問題が表面化しにくい。

ともあります。

貧困主婦の4人に3人が自ら専業主婦を選択しているということですが、この3人が実際に事足りた生活だと感じているからこその専業主婦なのか、怠惰な専業主婦なのかはわかりません。
ただ、それに続く結果として、3人に1人の専業主婦が幸せであると感じている。

これはどう捉えればよいのでしょうか。
一般論としては「貧困」と「幸せ」は同義ではありません。
つまり、幸せだと感じている専業主婦は自身を『貧困専業主婦』であるなどとは微塵も思っていないということです。

問題が表面化しにくいというのも、そもそも自身が貧困であると思っていない。つまりなんの問題もないと思っているのですから表面化しないのも当然です。

また仮に問題ありきでも、ことさらお家の恥となるようなことを、わざわざ人に宣伝して回る人はいません。
家庭内のこととは、よいことも悪いことも表面化しにくいものなのです。

家庭環境の良し悪しは貧困によるものだけではない

専業主婦の子供への体罰やネグレクトはそうでない主婦よりも4割多い。

そもそも、このような問題は、どっちが多いとか少ないとかで語ることではありません。
どの子供も、一人一人がきちんと育つ権利を持っているのです。
専業主婦だろうが兼業主婦であろうが、虐待は虐待であり、ネグレクトはネグレクトなのです。
傾向として語られているのでしょうが、『貧困専業主婦』に育てられるとリスクが高いと思わせるような記事には同意できません。

私の周りには経済的にはとても恵まれた家庭が沢山あります。生まれてから死ぬまで、おそらくお金の心配などせずに贅沢三昧な生活を送れるような層の人達です。

そんな家庭に育った子供達全てが、虐待やネグレクトと無縁なわけではありません。
紙にプリントされた「福澤諭吉」先生が、親代わりという、つまりは親からの愛情を受けることなく、お金だけを与えられて育っている子供もいます。

また、親と同じように成功した人生を歩ませようと、全てを管理し尽くされ、心が壊れてしまった子供の例もあります。

もちろん、裕福でその上素敵な家族に恵まれて育っている子供達も沢山います。

同じように、たとえ経済的には恵まれていなくても、子供を上手に育てているお母さんは世の中に沢山います。

つまり、経済的には恵まれていない専業主婦家庭の子供だからリスクが高いという考えは、少し乱暴過ぎます。

貧困による教育格差

『貧困専業主婦』家庭は子供に対して教育費がかけられないせいで学力が低下傾向にあり、貧困の連鎖を生む可能性をはらんでいる。

確かに一理ありと言えましょう。お金のある家の子、ない家の子では、そもそものスタート地点が違います。
経済的に豊かであれば、専門性の高い私学へ進む、また海外で教育を受けることも可能です。つまり選択肢はたくさんあるということになります。

最近では(東京では)中学受験をする子供が増えています。そのために受験専門の塾へ通うとなると、相応のお金が必要になります。
今の日本はよほど優秀な子供でもない限り、よりよい教育を受けるためにはお金が必要であるというのが現実です。

また奨学金などの問題も含め、大学へ進んだはいいけれど、生活費と学費を稼ぐためにバイトばかりしていなければいけない学生がいる一方で、勉強や遊びだけをしていられる学生もいます。

こうしたことから学力の低下という問題がでてきてもおかしくはありません。

ただ、親が貧困に苦しんでいたからこそ、自分はがんばって這い上がってやろうという野心が育つともいえます。
こうした子供の中には、とても逞しい子が多いものです。

とはいえ、現実を見れば負の連鎖というものは完全には否定できないのが悲しいところです。。。






プライスレスな生活を知る

そして最後に。。。
貧困専業主婦は高卒で1億円、大卒で2億円の生涯賃金を失う。

だからなんなのでしょう?
お金でしか生きることの価値を測れないことこそ、貧しいことです。

1億とか2億とか、大きな数字を出せばインパクト大ですが、お金で損はしても、それ以外の点で得られるものはたくさんあるのです。

例えば、子供が初めて言葉を話した、はじめて寝返りを打った、初めて歩いた。
そんな我が子の成長を日々目の当たりにし、感動の毎日を送れることは、お金には換算できない価値があります。

日々、腕によりをかけて家族のために作ったご飯を喜んでもらったり、感謝されたり、一生懸命に働く夫の健康管理にも一役かっていると思えば、それもまたプライスレスです。

記事の中に、日本の女性はお金よりも自分の手で子供を育てることに価値を見出すため貧困家庭の3人に一人は幸せだと感じている。

ともあります。
私はそれの一体なにが悪いのか?と思うのです。
その人が幸せなら、たとえ貧困だろうが他人がとやかくいう問題ではありません。

子供を育てるのは立派な仕事です。そして母親にとって、子供の成長を逐一見ていられるのは幸せ以外の何物でもありません。

私自身、子育てをして過ごした日々を思い返せば、1億も2億も、ちっとも惜しくないわと思います。
何億出しても買えない経験というものがあるのです。

自分が幸せな人生であると思っているのに、なぜそれを社会が問題視する必要があるのでしょうか?
お金がなくても幸せだと思う人もいれば、お金があっても不幸だと思っている人もいるのです。

2億円を無駄にしても、もっと欲しいものがあるのなら、そちらに手を伸ばすのは当然のことです。

お金だけに価値観を置くのは、時にマイナスになります。
欲張りすぎると人は目が曇るからです。お金に目が眩み、本当に尊いものを失ってしまったら?またそれすら気づかずに過ごしてしまっていたとしたら?
どんなにもったいない人生かと思うのです。

自分のものさしで測る

ただ、誤解して頂きたくないのは、私もお金は大好きです。そして、お金があることで生きやすくなるということも知っています。

今は歳もとり、「事足りる」暮らしがあればいいと思うようになりましたが、若い頃はガツガツとお金を稼ぐことに夢中になっていたこともあります。

そして、ハード、ソフトとあらゆる面でその頃培われたものがあるからこそ、今こうして専業主婦でいられるというのもあります。

ただ、いつの時も自分なりに「これが私の幸せ」という指針だけは持っていました。

社会の一員として生きていくためには、周りを見て自分の立ち位置を確認することも必要ですが、基準はあくまでも自分の中になくてはいけないものです。

幸せの物差しも、人によって目盛りの数も長さも違います。
違う物差しを持っているのに、同じ寸法に合わせるようとすること自体に無理があるのです。
無理があるから苦しむことになるのです。

たとえ世間から『貧困専業主婦』などと呼ばれたとしても、それは他人の物差しで測った結果です。
自分自身が幸せだと感じられる生活であるなら、『貧困専業主婦』ではないのです。

もしも、自分は世間の言うように『貧困専業主婦』だわ。。。と、それを辛く思うのなら、そこから抜け出すために専業主婦を一度卒業してみてはどうでしょうか。







働かない言い訳はしようと思えばいくらでも出来ます。
ただ、今の社会は一億総社会、みんなで働きましょう!という流れになっています。
仕事をした経験のない主婦でも、中年になった主婦でも、何十年のブランクがある主婦でも、仕事の内容や条件など妥協すれば、どこかしら働き口はあります。

いわゆる4Cといわれる、介護、クリーニング(清掃)、クッキング、キャッシャーなどは、年齢や経験問わず、求人はたくさん出ています。

若い頃にスーツを着てオフィスで働いていたバブル世代からしたら、4Cといわれる仕事につくのは正直なところ二の足を踏むのは理解できます。
しかし、それこそが贅沢というものでしょう。年齢的にも職が選べないのなら、仕事ができるだけ御の字です。
何をやってもお金はお金。貧困から抜け出すためなら、過去の栄光によるプライドなどさっさと捨てて前に進むべきです。

プライド以前に体力的に無理というのなら、在宅という選択もあります。
いまはスマホやパソコンがあれば、ネットで多少のお金を稼ぐこともできる社会です。

ただ、どんな仕事でも、お金を稼ぐというのは簡単なことではありません。それ相応の犠牲は払わなければなりません。

体力的なキツさ、人間関係の煩わしさ、家事育児との両立。
ネガティブな面を考えれば、専業主婦が社会に出ていくのは、大変な苦労が待っていると思った方がいいでしょう。

在宅で個人事業主としてビジネスを始めても、それなりのリスクは覚悟しなければいけません。安定するまではある程度の時間を要することになりますし、失敗する可能性もあります。
どちらを選んだとしても、楽な道はないということです。

それでも、食べたいものも食べられないような貧困生活を送るよりはマシだと、私なら思います。

贅沢は必要ありません。ただ自分が描く人間らしい生活、幸せな生活を送るためにもっとお金が必要であると考えるなら、お金を作ればいいのです。
自分のものさしで測り、そこに『貧困』という結果があるのなら、そこから抜け出す行動を自分自身で起こさねばなりません。
とくに子供のいる主婦は、問題を先送りにしている時間はありません。

家庭の都合や健康的な問題で働けない人などは、その限りではありません。私はこれまでそうした状況に置かれた経験がないので、詳しくはわかりませんが、もし自分がそうなったときは、行政からどんな支援が得られるか、救済措置を詳しく調べたり、似たような状況の方に相談するなり、やはりなんらかのアクションは起こすはずです。

リスクは誰にでもありき

何かというと、専業主婦が槍玉にあげられていますが、いまや格差は広がり、非正規雇用問題に見えるように、すべての人にとって貧困に陥るリスクはあるのです。

働けばいくらでもお金は入ってくる

そんな当たり前のことが、難しい社会になってきていると感じます。
物価も高い上に税金は年々重くなる。教育費も際限がなく、お金は出ていく一方です。
一方で働けど働けど給料は上がらず、働き方改革によって、労働時間は削られ、その分収入は少なくなり、頭を抱えている人が、私の周りにもたくさんいます。

つまり、誰もが貧困と隣り合わせの社会に生きているということです。
たとえいま安泰であっても、10年先はどうなっているかはわかりません。
現在のシニア世代のように、よい時期のあった世代はそれなりの備えもでき、万が一のリスクを回避する準備をする余裕もありましたが、若い人達はそんな余裕すらなく、今を生きることで精一杯です。

そんな様子を見ていると、「うかうか専業主婦などしていられない!」というのも理解できます。






自分の生き方は自分の意思決める

私は先月、仕事を辞めてまた専業主婦になりました。
ここ数年、少し働いて休憩し、また働くという生活をしてきましたが、年齢的にももう仕事はせずに、ゆっくり過ごそうと今のところは思っています。

いくら世間が専業主婦をネガティブな存在として捉えていたとしても、私は専業主婦であることで幸せな生活が送れるのなら、一向に構いません。

ニュースを見ていても、ドラマを観ていても、働く主婦が持ち上げられていると感じられます。

逆に専業主婦は『貧困』などという言葉までくっつけられ、イメージを下げられっぱなしです。
これに一喜一憂するのは、情報によってコントロールされているということです。

先にも書いたように、自分の思い描く人生を生きるために働くことが必要な人は働けばいいのです。
ただ、自分の意思とは逆に、ただ社会の流れに倣って、自分の生き方を決めるのは愚かなことです。

ニュースを見ても、世の中の流れを見ても、いまは専業主婦も働いて、この赤字国家に税金を納めよ。子供は産んで頭数だけ増やしてくれればそれでいい。子供の面倒を見る時間があったら働け。

そんなメッセージに思えて仕方ないのです。これを遠回しに言っているのが、『貧困専業主婦』や「何億損をする」といった話題となるのでは?と、私は勘ぐってしまうのですが、それは捻くれすぎでしょうか?

もしもお国が、

「我が国はもはや借金まみれ、国も無駄遣いを慎むので、国民総出で働きこの窮地を脱したい。必要な子育て支援はするから、専業主婦も国のためにガンガン働いて欲しい!」

そう言うならば、私はその言葉にのって喜んで働くかもしれません。

自分の国が危うい状態であるのなら、国民としてなんらかのアクションを起こさねばと思うでしょう。

しかし、

「専業主婦なんかしていたら貧困真っ逆さまですよ」

「社会から隔絶されたつまらない世界にいて満足?」

などと煽られると、天邪鬼の私などは、

貧困だとも思わないし、今さら社会から疎外されても痛くも痒くもありません。

専業主婦のままで結構です。

そう思ってしまうのです(笑)

まとめ

ちまたで言われる専業主婦バッシングに対して、もはや反論する必要はありません。
『貧困専業主婦』も然り。

今の自分が満ち足りていればそれでいいではありませんか。
貧困を放置するのはよしとはしませんが、自分にとって幸せな生活であると思えるなら、専業主婦であることを恥じることも、後ろめたさを感じる必要もありません。

家族のために家事育児を一生懸命にやるのも立派なことです。1日24時間、365日オンコールの大変なお仕事です!

それを楽しんでできるのは、今の自分が幸せだからこそです。

私の思う『貧困専業主婦』とは、自分の暮らし、していることに納得できず、常に不満を吐き散らしながらも何もしないでいる人です。

日々、幸せを感じながら、喜びをもって暮らしている専業主婦は、みんな豊かな人生を歩んでいると胸を張っていいのです。